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普通のサラリーマンが充実した定年後を目指します

戸山公園

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戸山公園

 

戸切絵図より

今日は徳川家斉が戸山山荘に御成りになる気分を味わいます。

江戸城から牛込御門を出て神楽坂をとおり、穴神社で休憩して
から戸山山荘に入る早稲田通りがルートだったそうです。
神楽坂は江戸大火で麹町から神楽坂に移設された善國寺の門前町としてにぎわいます。
また、関東大震災日本橋や銀座から移ってきた花街の面影が残っています。
私が訪問した早朝はお店が閉まっていて途中の鶴巻南公園でお弁当を食べて進みます。

暫く歩くと穴八幡宮の赤い鳥居が見えます。

鳥居の横には流鏑馬銅像があり、高田馬場らしさを感じる事ができます。

清水家下屋敷とその横に存在した高田馬場は現在甘泉公園となっているが、馬場の跡かたはありません。
彦根藩下屋敷は現在大隈庭園になっている。
私が訪れた土曜日は大学生と家族連れが半々ほどいて庭園でお弁当を食べていました。

そして、尾張藩下屋敷は現在戸山公園になっています。
箱根山荘は東京ドーム10個分13万坪で近世最大の大名庭園
箱根山は人口築山。一応山手線内最高峰。
江戸の頃は将軍やお殿様しか登れなかったそうですが、今は誰でも登れます。
私が登った時には狭い山頂に若い家族だけがいて気まずい雰囲気でした。
世が世なら庶民の私たちが入れる場所じゃないんだよと思いながらも、周囲は鬱蒼とした木が生えて見晴らしはなく、歴史を知らなければその価値を感じる事はできません。


当時庭園には実物大の宿場が時代劇のセットのように作られていたそうです。
自由に城外に出れない将軍様が旅気分を味わえるテーマパークのような存在でした。
当時は大名でも自由に江戸に出る事はできず、自分の屋敷でも出る門と帰ってくる門を事前に届け出て、その通りに帰ってこないと門番に入れてもらえなかったそうです。

尾張藩上屋敷は市谷にあり、現在は防衛省の敷地となっています。
中屋敷は麹町にあり、現在は上智大学の敷地となっています。
下屋敷は複数ありましたが、最大のものが戸山山荘でした。
早稲田大学学習院大学、戸山ハイツになっています。

東京で巨大施設が作れたのは広大な大名屋敷跡を利用できたため。
廃藩置県で大名がなくなりその屋敷は全て不要となった跡地を利用できた。

もし豊臣家が存続して大坂に幕府を開いていたら、
参勤交代はなく、大名は大坂に大名屋敷を設置する必要はなく、
その跡地を利用した公官庁や大学や公園は造れなかったでしょう。

民家を用地買収して巨大な空間を創るのは時間とお金がかかりすぎます。

現在の首都東京があるのも江戸をゼロから作った徳川幕府のおかげです。

 

四ツ谷内藤新宿

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四ツ谷内藤新宿


・この絵が発表された直後、広重が日本橋の床屋へいったところ、客達が口々に

「今度出た内藤新宿の馬の尻なんざーうめえもんだ。」
と、しきりに誉めていた。
余りの誉めようにすっかり照れた広重は逃げるように出て行ったという。
当時江戸中を沸かした作品である。

・これは四谷4丁目の四谷大木戸跡の歌川広重の絵の看板の説明分です。
画の構図や馬の尻のアップは私の目からも大胆で画期的なものですが、
江戸人の感性でも話題になる画だったようです。

・江戸時代に描かれた馬の尻は、現代ならさしずめ車のマフラーか。
ネットを検索するとバイクを馬に例えて画と同じ構図で
写真を撮っている人がいた。
確かに鉄の馬ならバイクの方がしっくりきます。

・広重の絵の馬糞はデフォルメされて臭いもしません。
現実に馬糞があちこちに転がる路はとても歩けるものではいと思います。
よそ見して生暖かいのを踏んだ日にはとんでもない惨事になります。
注意していても乾燥した細かい破片は踏んでしまいます。
現代でも犬の散歩で糞尿が放置されている路は歩きにくいでしょ?


汚い話はさておき、現在の新宿御苑は当時の信州高遠藩主内藤家の下屋敷でした。
その一部を返上して宿場とした事から内藤新宿と呼ばれ、地名にも残っています。
ふと迷い込んだ新宿2丁目の太宗寺には内藤家の墓がありました。

江戸時代は蕎麦が流行していてその薬味として唐辛子も流行し、内藤新宿辺りでつくられていたそうです。

そんな内藤家ですが学校の教科書には登場せず、全国区の大名ではないようですが、

こと新宿においては 有名人のようです。

 

・新宿2丁目駅近くに天龍寺があります。
入ってみると「天龍寺の時の鐘」があり説明版には
「江戸の外れに存在したため、通常より早く鐘を鳴らし、
内藤新宿で夜通し遊行する人々に「追出しの鐘」と呼ばれたという。
また、江戸城まで距離があるため登城に遅刻しないように30分早く撞いたそうです。

江戸時代も夜通し遊ぶ人がいたんですね。

月に一度の定例登城では多くの大名が一斉に登城するため、桜田門外は凄い混雑となったそうです。
門の目の前にある井伊家さえ2時間かかったそうですから、新宿からだと4時間くらい
かかるかも知れませんね。


さて、四谷大木戸跡に戻ると、近くに玉川上水番所跡の看板があります。
羽村から四谷大木戸までは開渠で、ここからは地下水道管を埋設して四ツ谷を越えたと記載されています。
「塵芥を捨てない、魚を取らない、洗い物をしない、雑草取りをする事。」といった
内容の高札が立っていたそうです。
当時は浄水技術がないため、江戸の飲料水として使われる水質保全は重要でした。
それでも水道が原因で伝染病が何度も流行ったと何かで読んだ気がします。
玉川兄弟が私財を投げ打った話は有名ですね。

大木戸跡近くに2メートルを超える巨大な水道石碑がたっています。
何と篆書は徳川家達
家達は最後の将軍徳川慶喜が隠居した後、田安家から徳川宗家16代当主となった。
慶喜の事を嫌っていながらも、隠居した慶喜の生活費を徳川宗家として負担していた。

慶喜が将軍になるときに家達はまだ4歳、徳川宗家を継いだのは6歳。

廃藩置県で赤坂に移住して篤姫が熱心に教育した。

篤姫慶喜と不仲だったので家達も慶喜を嫌っていたそうです。

慶喜は徳川をつぶした人、私(家達)は建てた人」と言っていたそうです。


・さて、大木戸跡から更に東に進むと「田安通り」の看板。
もしかして御三卿?・・・近くの説明版には御三卿の田安家の
下屋敷があったとの記載があります。
東京は徳川家が発展させた町であることが理解できます。
何もなかった江戸に築城し、全国の大名を住まわせ、漁民や商人
や職人を全国から呼び寄せた。
だから大名屋敷だらけで、商売人は駿河屋とか越後屋という屋号が多く、漁民は淀川区佃村から呼んで地名に残っています。
それから全国の寺を呼び寄せるので香川の金刀比羅さんや京都の伏見稲荷がある。

自然に発生した都市ではなく、人造の都市なんですね。

 

・今度は甲州街道から一歩南に入ると笹寺があります。
慶応大学医学部が実験に使った動物のお墓がります。
更に東に進むと須賀神社があります。
ここには

江戸時代後期に描かれた三六歌仙絵があります。
江戸時代のお寺は宗門人別改帳により出生、妊娠、出産登録など区役所の役割があったので、江戸は人口比例して寺多い印象です。
それぞれの寺院は信仰を集めるために霊験あらたかな有名な仏像や由緒をもつ必要があったのではないかと勝手に想像しています。

現代のお寺にはそのような機能はなく、どうやって寺の収入を維持しているのか知りませんが、どこのお寺の境内にも住職のものとおぼしき高級外車が駐車しているのが不思議です。

私は朝8時台に訪問しているため、他に参拝者もおらず、参拝者の車ではないでしょう。

我が家は父母の代から本籍地を離れているため氏子でもなく葬式の時以外はお寺と接点がありませんが、江戸時代創業のご商売されている店などは先祖のお墓があって、お祭りにも参加するなど生活の中にお寺があるのでしょうか。

 

・次に曙橋方面に向かうと「津の守坂」を通って荒木町に至ります。
荒木町には「むちの池」があり、傍らに津の守弁財天があります。
むちの池は鉄腕ダッシュでかいぼりして有名になりましたね。
昔は大名屋敷の池で今の100倍ほどの広さがあったそうです。
新宿の十二社と同じく過去には滝の名所として栄えたそうですが、そんな過去を知らなければ淀んだ小さな池にしか見えません。
この辺りは地形マニアには有名な窪地の底部に当たります。
名前の由来は美濃国高須藩々主松平摂津の守がこの付近を拝領し上屋敷とした事ので「つのかみ」と呼びます。

この高須藩から出た4兄弟が松平容保を筆頭として幕末に活躍した高須4兄弟。

 

・むちの池周辺は窪地で、坂が多く、日陰でジメジメしていて生活しにくそうです。
戦前は花街だった雰囲気を残して現在も飲食店が並び独特な雰囲気をもつ町です。

昼は陰気でジメジメした窪地に見えますが、夜になればネオンに隠されて雰囲気ある酒場になるのかもしれません。

 

・荒木町からあけぼの橋どおりの谷筋を北上し河田町に入ります。
あけぼの通も谷筋になるため通りは緩い傾斜であり、周囲は念仏坂、安養寺坂など急坂が多い。
通りの終わりは今回の目当ての金弁財天。地図や写真を持参していきましたが細い路地の凹部分にあり、看板もないためわかりにくい。何度も坂を上り下りして見つけた。

小さな祠は暗くて金網で囲われて中をうかがえませんがちょろちょろと水が流れる音だけは聞こえます。

この辺りを水源として支流を集めて真田濠に注いでいたため水源を確認しに来たのですが良くわかりませんでした。


東京女子医大の前を折り返して市ヶ谷柳谷の窪地へ向かう。
この窪地はお寺が多く、ググってみると、松平佐渡守や水野土佐守の屋敷があり大名が参詣する機会がおおいためお寺が多いと書いてありました。
ここも窪地なので坂が多く、狭い路地に小規模住宅が密集している。

 

・最後に富久町西交差点に立つと、そこを頂点に3方向に下り坂になっているのが
良くわかる。

大きな街道や大名屋敷は尾根筋にあり、下屋敷や民家は谷筋にあったのでしょう。

 

・コロナ非常事態宣言で急遽図書館が閉館となってしまったため、GW中の暇潰しに
本を購入した。
今回は歴史ではなく、地形の高低差を楽しむ本にしてみました。
「東京すりばちの達人」カラーと写真が豊富なので1500円とお高め。
しかしコロナで外出できないときに、一人で史跡を歩く事は教養を高め、東京の地理と歴史を理解し、健康に良いので安い投資だと思います。
居酒屋に1回行くより全然有益です。。

・5月2日の天声人語の一部を以下に要約しましたが、同じことを考えている人がいるのではないかと思います。
「吉見俊彦さんの東京裏返し、社会学的街歩きガイドをよむと、その博識に触れながら
街を一緒に歩いている気分になる。
飛鳥山は吉宗が庶民に楽しみを提供するため桜を植えて開発した。
近くに渋沢栄一の製紙会社があったが、経済発展にともない大量の紙幣が必要だと考えたから。
今年の大型連休は遠出を諦めて近所の歴史に触れながら散歩するとか。
今年は小さな発見を求めてのんびり歩くのも悪くない。」

 

・最近の史跡訪問を始めるまでは地形に全く興味がなかったのですが、ブラタモリ

などを見ていると歴史的遺産がそこにあるにはすべて理由があり、その理由の
多くは地形に原因がある事がわかったのです。

江戸は当時世界最大の人口密集都市なのに、の地下水は海水が多く飲み水を確保する必要があった。

また城の防御のため濠が必要であり、神田川などの治水対策が必要だった。

地形による必然が歴史を形成している事が理解できますね。

現代に生きる我々は、海を埋め立て、山を切り開き、地下鉄を縦横に走らせて地形など征服できていると考えていますが、今ある東京は過去の遺物なんですね。

 

 

東京微地形神田川

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神田川

明日以降☂予報なので花見を兼ねた地形の勉強に行きました。

 

神田川沿いは今が桜盛。

今回のルート:高田馬場~のぞき坂~胸突坂~旧田中角栄邸~雑司ヶ谷鬼子母神~椿山荘ホテル~鳩山会館江戸川橋~肥後細川庭園~戸山公園

3万8千歩かかりました。


神田川上水は関口大洗堰やそこで分岐した上水道がなくなっています。

史跡を辿る事はできないが、神田川の北側は急な斜面になっており、
高さを維持して水を流すイメージがつかめる地形になっている。
堰は長さ18m、幅12mと巨大であり現存していれば、巨大事業
の面影を見ることができたのにと残念です。

また、江戸名所絵で見る神田川は現在より蛇行が激しく、江戸期以降も
手が加えられて現在の姿に至っているようです。

神田川の北側は台地になっており、最大30Mの標高差がある。
南側は商業エリアや車道から隔離された小路となっており、
江戸川公園もあるため喧噪を忘れて散策することができます。
川の北側は南の日が当たって桜の開花が早く綺麗に見えます。


当日は江戸川橋まで東に進みましたが、江戸時代にはこの橋辺りまで
満潮が遡上してボラなどが取れたという記録があるそうです。
だから江戸川橋ではなく、関口に取水口を作る必要があったんですね。

江戸川橋から北上して久世大和守の屋敷のあった鷺坂を上り、鳩山会館の横を通ると、音羽通りが谷
地形になっていてここの水も集めて神田川に流れ込んでいたことが
理解できます。
残念ながらコロナで鳩山会館に入ることはできませんでした。

次に神田川の北側の台地を歩きます。
台地は南向きの斜面で、日当たりが良く早稲田の平地を望む
都内屈指の住宅地だそうです。
音羽台地も含めれば周囲には鳩山一郎田中角栄山縣有朋田中光顕、
細川護立などの政治家の邸宅が並んでいます。
斜面には小さな家が立ち並んでいます。
せっかくの南斜面ですが、2~3階建ての家が多く、どの家も南側
の窓は建物の陰になってしまっていますし、斜面なので庭もなく
急坂では生活が不便な感じですね。
目白台地の崖の際に住むのがお金持ち。

椿山荘は山縣有朋の邸宅で、昭和天皇や財界人を招いて会議を開いた
りしていたそうですが、広大な敷地や贅を凝らした庭園は
当時の権勢を窺わせます。
椿山荘はコロナで宿泊客以外は入ることができません。
肥後細川邸は御三卿下屋敷のあと、細川家の下屋敷になった
そうです。
広重の名所江戸百景を見ると、川の北側に芭蕉庵、南側には早稲田の
田んぼが広がっています。
広大な敷地ですが、現在の高級住宅街ほどの利便性はなかたでしょう。

さて、今回のルートは神田川を渡るいくつもの小さな橋や、
目白台地に上るいくつもの小さな急坂で南北を行ったり来たり
して途中の公園や庭園で休憩しながら逍遥する事ができました。

下町を除けば東京の広大地はどこに行っても大名の屋敷跡であること
が実感できます。
永井荷風が江戸切絵図をもって東京を散歩した気持ちが理解できます。

 

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東京の微地形の秘密

緊急事態宣言最後の今日の天気予報は「春の嵐」との事でステイホーム。

「東京の微地形の秘密」内田 宗治 さんの本を見て脳内散歩します。

私にとってはこの本は三ツ星です。

P36と41を見比べれば日比谷入り江が良くわかります。

江戸時代に埋め立てたって凄いですね!現在皇居坂下門から東京駅迄歩いて15分。

でも日比谷入り江が残っていれば「竹橋」~「鎌倉橋」~「呉服橋」と北側をぐるっと回るため30分以上かかるんじゃないでしょうか。

埋め立て部分は現在大手町となり日本経済の中枢として発展しているため、経済的には埋め立てしないという仮定は難しいですが、もし日比谷入り江が埋め立てられなかったら、九段上や代官山から入り江が望める素晴らしい景観になっていたでしょうね。

 

歌川広重の「桜田門外あふひ坂」は昔から気になる絵でした。

画面の7割が黒色という雰囲気もさることながら、冬の夜間に褌姿でうろつく二人組、夜なのに蕎麦の屋台が出ている事など違和感の多い絵です。

あの絵の奥に流れる水が赤坂溜池の洗堰なんですね、現在の商船三井ビル辺りが溜池になっていて霞が関の入り口あたりに堰があった。ふんどし姿の2人連れは「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」と書かれたちょうちんを手にしているので、葵坂下にある金毘羅大権現、現在の「虎ノ門 金刀比羅宮(ことひらぐう)」への「寒詣(かんもうで)」の帰り道だと分かるそうです。

広重の絵1枚で当時の地図、大名屋敷や池、風習、名所がわかるので美術品としての価値に加えて歴史資料なんですね。

 

P76「東京で小学校だった人には雲取山玉川上水と海抜0mは日本の常識とおもわれている」とのコメントは興味深い。

50歳で地方から東京に移住した自分にとってはいずれも初耳。

こういった知識と東京の地理を知るために始めた東京散歩なのでピッタリの記事です。

これを読むと、昭和40年までの地下水くみ上げにより東京低地では4M以上地盤沈下したんですね。江東区とかやばいですね。

温暖化で海水面が上昇してお雨が降ったり、津波が発生したら水没して2週間ほど水が引かないそうです。

荒川ロックゲートにも行きたくなりました。パナマ運河の小さい版ですね。

荒川区役所や赤羽岩淵駅も見学したい。

 

P89 椿山荘あたりも散歩したくなります。

私は現在江戸時代の史跡を中心に散歩していますが、明治以降の史跡として山縣や大隈が住んだ地域とその地形は南向きの台地の端にあり、田中角栄鳩山一郎など多くの権力者が住んだ理由がわかる。

 

一方、目黒川沿いの麻布台地や高輪台地など5つの山沿いは皇族や財閥系の邸宅が多いそうです。

原美術館、三井・三菱倶楽部、高輪邸なども地理と地形と歴史を知るために巡ってみたいです。

 

それから最後のページで羽村取水堰からスタートする玉川上水のいくつかのポイントもめぐってみたいです。

 

 

 

 

 

 

開花確認

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靖国神社神池庭園

 

本日の目的

靖国神社の桜開花確認
千鳥ヶ淵への分水嶺確認


ルート 四ツ谷駅市ヶ谷駅~東郷公園~千鳥ヶ淵緑道~靖国神社~九段下~日本橋川沿いを遡上して三崎橋~四ツ谷

 

今回は「水が教えてくれる東京の微地形の秘密」という本で地形を確認して散歩。

古代に東郷公園の辺りから千鳥ヶ淵に向かって流れていたという小川跡を歩きました。
本のP52にのっています。
言われてみれば確かに谷筋になっています。
地球が温暖化して東京が熱帯となり豪雨が発生したらこの辺は水浸しになるだろうと想像できる地形。

 

そこから千鳥ヶ淵緑道を歩くと所々に開花している。
向かいの北の丸公園の土手沿いにも花が見える。
来週には7分咲ではないでしょうか。
そのまま靖国神社へ。
神池庭園の辺りに行くとチラホラ咲いてます。
コロナ禍でも今回のコースは宴会をする場所がないため閉鎖されずに桜が見れます。
庭園や公園の花見だと閉鎖されていることがあります。

靖国神社と言えば戦没者の慰霊なので菊と桜のイメージですね、お土産に桜を閉じ込めたガラスや日本酒が売っていて購入意欲をそそりますが、散歩には重いので諦めます。

 

その後、九段下から三崎橋まで日本橋川を遡上します。
本のP56を見ると、江戸時代に神田川駿河台地掘削して付け替えた理由やルートが良くわかります。
大雨のたびに神保町辺りが水浸しになって城下に人が住めなかったのですね。

江戸時代に付け替えで1キロほど埋め立てた平川ですが、結局運河運輸のため三崎橋から日本橋川を開削したのですね。

明治の頃にはホテルメトロポリタンエドモントがある一角が飯田町駅といって新宿からの終点駅で、そこから日本橋川に移し替えて河運河で荷物を運んだんですね。

用地買収ができずに、やむなく外堀沿いに鉄道を敷いたが、御茶ノ水あたりは難工事であったため飯田橋止まりで東京まで鉄道が開通していなかったんですね。

ついでに小石川後楽園に行ったらやっぱりコロナで閉園してました。

外濠普請の1/7は伊達藩が担当して5700人の人足を動員したそうです。

とてつもない工事ですが、そのおかげで江戸200年の神保町あたりの洪水が防げたわけですし、今のJRや地下鉄があるのも外濠のあったおかげなんですね。

つまり今の東京の姿を作ったのは内堀や外濠工事だったことを再認識しました。

 

 

島津斉彬のすべて

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島津斉彬のすべて

お由羅ら騒動とは愛妾の子を藩主にしたい斉興とお由羅
を支持する一派が起こした不祥事というイメージでした。
しかし、藩の財政問題が最大の原因だと知りました。

薩摩藩の借金の推移
1810年代  100万両
1827年   500万両と借金が膨張していた
1828年   調所広郷が歴代のお歴々に呼び出されて
      500万両の借金返済を命じられる。
この時、調所は一旦命令を断っているますが、他に人がいなく最終的に引き受けます。
調所は約10年で借金を整理することに成功。
長年苦しんだ藩の財政再建を再建した調所は財政面ではヒーローです。
10年以上にわたり藩に貢献したのです。
財政再建の方法は借金棚上げや琉球からの取り立て、贋銭造りなど問題もありました
が当時の薩摩藩の年間収入が14万両で、借金の金利が80万両だったん
ですから普通にやっていては破綻していたんですね。
再建後は藩主の後継争いに巻き込まれて老中阿部に自殺に追い込まれたといわれています。
この時73歳でその後、一家は離散したとの事。
酷すぎる、
薩摩藩の8代藩主重豪(オランダかぶれで散財)→9代家宣(重豪父の
重豪と対立して蟄居)→10代斉興(重豪の作った借金を調所とともに返済)
11代藩主にオランダかぶれの斉彬が藩主になるとまた借金が増えると心配した斉興と調所ができるだけ斉彬へ藩主を譲らなかったのは、当時の薩摩藩においては妥当な判断だと思います。

海外事情や殖産興業は大事だが、藩の財政が破綻しては元も子もない。
俺だってそうするね。

老中阿部は斉彬のもつ海外情報や技術を利用したくて、事件を利用して斉興を隠居させて斉彬に藩主を譲らせた。


調所は老中阿部に密貿易を規定以上に行っている事を詰問されて自殺に追い込まれた。
密貿易の増額なんて歴代藩主の承認のもとでやっていたわけで、幕府も薄々しっていた。藩を守るために自殺したといわれています。
しかも、密貿易の情報を阿部に提供したといわれる黒幕の斉彬は藩主になったあとで密貿易を更にふやしてるんです。

高校の教科書にも調所は天保の改革財政再建の代表例として出てます。

財政再建派の斉興・調所VS開国派の老中阿部・斉彬・一橋派+弟子の西郷、大久保。
という図式の中で、政争に巻き込まれてしまった。

調所家はその後一家離散しています。可哀想過ぎる。
薩摩藩って尊王攘夷派だと思われていますが、斉彬は完全な攘夷なんて無理だとわかっていたし、幕府の老中阿部の支援により藩主になっているんです。

阿部の死後は討幕に傾きますがそれ以前は幕府と協力していたんですね。

斉彬はオランダ語の読み書きができたそうです。
それで海外情報をいち早く入手していたため四賢候、徳川斉昭と書籍の
貸し借りや文通をしていたんですね。
鎖国中の江戸時代に外国語を勉強しようとするその向上心は感心します。
恵まれた現代においても必要とされる英語さえ勉強しない私を含めた
多くの人よりは志が高いと感じます。
また、斉彬は集成館を作ったり、藩政を行ったり、働き者だったそうです。
何人もの部下から一度に報告を聞いて指示を出す様子は頭が2つあるようだ
寺島宗則が後に書いています。
外国語や海外の技術への好奇心、向上心。藩や日本をよくしたいという
志をもち、西郷や大久保を使いこなした器の大きな藩主であるようです。
しかし、それができたのも重豪の教えや、調所の財政再建があってこそ。
そして藩政7年間、享年50歳で病死しています。

小市民の私は幕末の偉人である斉彬より5年も長生きできている事に幸せを感じます。

貴重な残された人生を無駄遣いしないように今後も勉強していきたいと思います。

 

 

 

文明としての江戸システム③

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南鐐二朱銀

 

高校教科書より

「同じ規格、品質で全国に通用する貨幣は家康の慶長金銀が初めてとされる」

「丁銀や板銀など秤量貨幣を鋳造」

「全国10か所で寛永通宝を大量に鋳造するなどして金・銀・銭の3貨が行き渡る。

成程、物の交換比率が決まっていなければ、物を交換したり売買するたびに交渉をしなければならず効率が悪かったでしょうね。

                                                                                                                    

「吉綱の時代に幕府直轄の金銀の産出が減少、明暦の大火、などにより幕府財政破綻

勘定奉行荻生徂徠による貨幣改鋳で小判発行増加、貨幣価値低下」

「家治の時代田沼意次財政再建のため南鐐二朱銀で初めて計数銀貨を鋳造させ金本位貨幣制度に一本化を試みた」

新井白石は正徳小判により貨幣を元に戻すが、社会は混乱」

「幕府や大名は新田開発により年貢米を増やし、都市部で販売して貨幣収入増を図る」

「農村も綿、油菜、たばこ、茶など商品作物を生産し貨幣収入を得る」

  • 当時は年貢主体経済でしたので、商品作物を増産する事は幕府に捕捉されない生産物が増えるという事。

江戸時代は藩のコメの石高によって幕府から普請が課せられたため、石高に反映しない商品作物を多く保有していた薩摩藩長州藩は表の石高以上の経済力をもっていたようですね。

 

宇治茶琉球黒砂、紀伊ミカンなど大名の奨励のもと特産品化された」

これらの記載を見れば、江戸時代を通じて「財政破綻」「貨幣政策」「コメ政策」に苦労していたことが窺えますね。

現代のブランド特産品は、この頃に藩によって育成奨励されたものが多いのでしょうね。

単に耕作に適していただけではなく、江戸時代の市場経済の発達により特産品として藩に奨励されたわけで、自然発生的に特産品になったのではなく政策的に育成された。

 

当書(文明としての江戸システム)より

 

吉宗の時代以降は日本の人口が頭打ちとなっていたのに、幕府の財政のために新田開発を活発化させたためにコメが余剰となり、米価低下、幕府の年貢収入減、武士の生活苦、米農家の生活苦といった状況になっていたようです。

諸藩も幕府貨幣獲得のため大坂へのコメの出荷を増やした。

通常大坂で余る米は40万俵程度なのが、1730年頃には200万俵も余ったそうです。

そりゃ米価は下がるよね。

米価低迷の原因を把握するために吉宗当時の幕府は人口調査や商品の交易データ、産出量データを調査しており、それが現代に残っているようですね。

昔のデータが残っているからその後何百年も歴史経済分析が可能になるわけで、かけがえのない無形の宝だという気がします。

 

 

安政から幕末にかけて米価は11倍になったそうです。

10年程度の間に11倍って、そりゃ年貢経済は破綻するね。

明治維新で大名が廃藩置県に反対しなかったのは年貢を基盤にした藩の財政運営が破綻していたから、何もせずに俸禄が貰えて東京に住めるならその方が良いと考えたという事を読んだ記憶がありますが。

米価上昇の理由の一つに、開港により海外との金銀交換比率のギャップから銀貨の価値が3分の1に低下したため相対的に米価が上昇した。

開港による強烈なインフレで幕府や諸藩の財政悪化と民衆の不満が高まりました。これは攘夷運動のきっかけの一つとなったようです。

 

話は変わって江戸時代の決済システムの発達について                             

全国の藩は大坂の市場で米を売却し、その一部を江戸藩邸に送金していた。

当時西日本は金、東日本は銀が流通していたため、江戸に送金するときに金が銀に交換されるため銀の価値が上がった。

逆に、大坂から商品が東京に販売されると大坂に払う金が必要となり金が上がった。

面白いですね、金銀の産出量や海外貿易による流出は感覚的にわかり易いので知っていましたが、大坂と江戸の流通システムによって金銀相場が変動していたのですね。

 

そして上記の地方と大坂と江戸の流通のために手形決済が発達したのですね。

空米切手や先物である帳合米取引などが高度に発達した。

そりゃそうだ、重たい米や貨幣をやり取りするより手形をやり取りした方が効率的。

でも手形って結局「信用と安定」が無ければただの紙切れや口約束なので、当時の江戸時代が安定していて信用できる商業取引が行われていたという事でしょうね。

実際に天保の改革で株仲間が廃止されると、流通が混乱してしまい株仲間が再度認められたようです。

当時は民間の経済取引で契約履行するためのルールや保証制度が無く、御家人などの武士が相手の場合は商人からの訴訟は認められておらず、当事者間の協議に任せられていたそうです。

株価仲間により組織的にルールや契約履行や罰則をつくらないと商取引の信用が担保されなかったようです。

 

金銀銭の3貨幣に加えて実質的に貨幣的な米も含めれば4つの相場が変動する複雑な時代であり、「生産者→仲買→問屋→小売→商品者」という複雑なルートを効率的に物流するには信用取引が必要でした。

 

教科書では「田沼意次財政再建のため南鐐二朱銀で初めて計数銀貨を鋳造させ金本位貨幣制度に一本化を試みた。」となっていますが当書では詳しく記載されています。

南鐐二朱銀は銀貨なのに、無条件に二朱金貨と交換が約束されたため、金貨として扱われたという事です。

そして、田沼意次が失脚後に松平定信により廃止されたため、教科書では「試みた」になっているのでしょうか?

その後定信が失脚後に南鐐二朱銀は復活し、明治に向けて金貨本位に統一されていったそうです。

印旛沼干拓蝦夷地開拓、銅やアワビやフカヒレ輸出奨励、株仲間公認による冥加金の増収、貸金会所設立など意次失脚後に廃止された政策は、一部からは「近代日本の先駆者」との評価があるようです。

実際に後に復活された政策が多いようです。

干拓は当時の人口増加や米価上昇に対応する政策。輸出は流出した銀を海外から回収する政策。冥加金は市場経済化により補足できない課税対象を解消する政策。貸金会所は増加する貨幣経済と手形経済に適合するもの。と分析されています。

 

当時の武士はお金は汚いもので、金儲けを考えてはいけないという価値観でした。

また許認可権をもつ役人の贈賄が増加し、新しい提案をしたもの勝ちの実力主義のイケイケどんどんの風潮を快く思わない勢力や、冥加金を取られる商人からの反発勢力もあり失脚したと思います。

栄花物語」より

 

権力としての幕藩体制は藩の中だけで土地をベースにした年貢により成立している。

ところが江戸後期は貨幣流通と市場経済発達により商品経済が増大した。米以外の加工品は藩の垣根を越えた分業となり、藩の外へ輸出される事で価値を生む。つまり幕藩体制と現実の経済活動に矛盾が発生していたのですね。

 

現代においてもGAFAがグローバルに提供するデジタルサービスに対して、各国が課税できない問題がありますが、物や現物サービスいがいのデジタル空間サービスへの課税は現実の国境の矛盾を現わしているのかも知れません。