teinenchallenge’s blog

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田沼時代内容

書籍の受け売りです。

 

田沼時代については「田沼意次」個人の伝記と、その時代背景全体の解説に関する歴史があります。

(個人の伝記)

田沼意次は600石の旗本から5万7千石の国持大名に出世。

戦国時代のような下克上もなく、平和な江戸時代にこれだけ出世するのは難しいですね。

理由は2代に渡る将軍の恩顧と、利益を重視する時代背景があったようです。

吉宗に従って紀州から登用された家系により、家重と家治の代に重用された。

身分に囚われず、財政赤字改善のための提案を積極的に採用し、将軍家、朝廷、老中や若年寄まで養子縁組を行うなど知略に長けていた。

しかし、儒教精神を重視し、武士は利益を求めない事を良しとするような、血筋の高い御三家や御三卿を敵に回した結果、長男の意知が江戸城内で斬殺され、家治の逝去により一挙に失脚します。

江戸市内では不況の原因を田沼家の賄賂政治とする世論があり、意知の葬儀には投石や罵声が浴びせられたようです。

また、養子縁組も次々と相手方から離縁、絶縁されます。 

意次の孫は1万石の大名を安堵されましたが地方転封されました。

少し可哀想になりますね。

 

意次は目立たず、謙虚、律儀であることを遺訓に残しており、

腰が低く、身分に関係なく丁寧に対応し、家来への気配りも細やかな人だったようです。

当時は儒教が重んじられ、身分に応じた態度が習慣とされていたため、平等な態度に対する批判もあったようです。

 

(時代背景)

江戸時代が始まり100年が経過しており、商人や町人の経済が拡大した。

複雑化する経済に対して、武家による幕府だけでは拡大する経済への行政需要に対応できない規模に拡大していた。

町人や農民身分、下級武士はさまざまな問題に対して、商売や利潤追求の工夫を見出してゆき、新しい発想による幕府への政策提案が採用された時代であった。

塩などの物産を専売にすることで、内税の消費税のようなものを幕府に上納しますとか、外国との貿易利権をくれれば上納金を納めますという感じです。

昭和で例えれば国鉄やNTTの民営化とか、酒税やタバコ税の値上げでしょうか?

 

米価が低迷したため、石高で表現される幕府や大名の財政が赤字となり、財政再建策が求められたことも背景にあるようです。

江戸時代のコメは貨幣の役割も果たしていたので、今でいえばインフレってことですね。

インフレ抑制のためにコメの出荷を抑制したり、幕府が米を買い上げたりしてます。

今で言えば金利上げで市中マネーを吸い上げる感じでしょうか。

増収策が成功すれば、提案した町民は儲かり、採用した担当奉行は評価されて出世し、幕府は財政難が改善するためバブルのようにイケイケで色んな提案が行われたようです。

当時の蝦夷開拓、印旛沼干拓などは現代に通じる公共事業バブルですね。

御用金政策は銀行融資の政府保証に保証料を徴収するようなイメージで、江戸時代から高度な金融システムが考えられていて面白いです。

しかし、意次失脚後と前後して全て廃案になっています。

今迄幕府が直轄していた事業を民間へ請負に出すようになりました。

事業の払い下げや、公共事業の入札に絡んで利権汚職、贈賄が増加するのはいつの世も同じですね。

また、当時は適切な贈答を行う事や、贈答に対して便宜を図ることは儀礼であり、それをしないと逆に失礼とみられる時代でした。

例えば、赤穂浪士浅野内匠頭が伊吉良上野介に贈り物をせずに嫌がらせされたのは、当時としては浅野が世間知らずという見方もあるようです。

 

確かな調査や裏付けもなく増収策を提案し、採用する者を「山師」と呼びますが、

江戸市中の情報を集める御庭番は、江戸市内は「山師」ばかりが利権を得ていると報告しています。

杉田玄白も日記で、目につくのは道楽者、奢るもの、山師だと書き残しています。

拝金主義ですね。

老中も勘定奉行に対して「確かな見通しもなく町人等の口車に乗せられて安易な献策をしないよう注意しているほどです。

 

時代は遡りますが、長崎貿易の利権を認めてくれるなら子供に毎年600両を贈ると新井白石に申し出た商人がいたと白石は書き残しています。

分かりやすいですね、今でいえば、利権を図った大臣の息子名義に毎年6千万円渡しますといった感じ?

 

どうですか、300年前も人間のやってることは今と似てますね!