本とブログの内容は関係ありません。
表紙絵が綺麗だったので掲載しているだけです。
ネットで情報収集しました!
NHKの大河ドラマ予定の渋沢栄一を知ろうと読みま始めましたが、
成功した経済人の渋沢より、将軍から趣味人になった慶喜の方が
慶喜と言えば・・
・265年続いた徳川幕府最後の将軍
・一度も江戸城で執務しなかった将軍
・最も長生きした将軍
高校の教科書を見てみましょう
「 坂本龍馬などが山内容堂を通して将軍慶喜に
討幕派の機先を制して大政奉還をすすめた。」
「朝廷(薩長土連合)は慶喜に内大臣辞退と領地返上を命じ、
反発した慶喜は大坂城で新政府と対決した」
「鳥羽伏見の戦いで敗れた慶喜は江戸に逃れ、朝敵となった」
・・・パッとしませんね。
明治政府によって徳川幕府は後世にネガティブな評価を与えられましたが、「江戸城を無血開城して江戸を戦火にしなかった」「フランス式陸軍の導入や海軍の近代化をすすめるなど先見性があった」と再評価もされています。
歴史認識は後世の権力者が決める事なので専門家の皆さまにお任せです。
渋沢栄一も慶喜への評価を上方修正すべく慶喜伝記を編纂しています。
渋沢が主役の大河ドラマでは慶喜は悪玉として描かれないのではないでしょうか?
慶喜の父は水戸藩主の徳川斉昭。7男であり長男のスペアだったが、一橋家に継嗣がおらず養子になった。
その後、一橋派と紀州派の争いで紀州派の家茂が将軍となる。
安政の大獄で紀州派の井伊直弼らから一橋家の慶喜は隠居させられる。
学生時代に、「なぜ将来将軍になるほどの偉い人が幕府から隠居させられるのか?
幕府とは徳川将軍の行政機関ではないのか?」
と疑問だったが、将軍は自分の実力だけでなるのではなく、応援する大奥や老中、大名などの派閥があり、派閥抗争の結果で決まるんですね。
派閥の理論という点では、何だか現代の首相と一緒ですね。
井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、慶喜は将軍家茂の後見職として京都で政治活動を行っている。
あれ?慶喜は将軍争いで負けた家茂の後見人?
家茂は当時13歳なので、いわゆる傀儡。さすがに13歳では単独で将軍職を行えないのです。
では、なぜ家茂派はライバルだった慶喜を後見人に選んだの?
巻き返した一橋派の島津藩の推薦だったんですね。でも後に戊辰戦争では薩摩藩と慶喜は敵として戦うんですけどね。
将軍後見人として京都で政治活動を行い、天皇の信頼を得て御所警備の最高責任者となる。
御所警備って新田義貞みたいな感じでしょうかね。そのまま御所の警護をしていれば忠義の将になるのでしょうか?
新田義貞ももともとは尊氏とともに北条家を滅ぼした源氏の流れなので、徳川家の慶喜が天皇側について江戸幕府と戦った可能性はないのかな?
京都では天皇の信頼を背景に勝手に政治力を発揮し始めた慶喜はこのため江戸幕府からは危険視され、幕府は陸軍部隊を派遣し慶喜を江戸に連れ戻そうとしたが慶喜は拒否した。
その後、紆余曲折があり慶喜は将軍に就任しますが、戊辰戦争に敗れて1年で将軍を退任して蟄居します。
歴代の将軍は江戸城に籠って側用人や老中を使って政治をおこないましたが、慶喜は生まれながらの将軍ではない。
戊辰戦争では徒歩で自ら戦闘した事もあったそうです。
戊辰戦争では兵力数で上回っていたにも関わらず、大阪城から咸陽丸で江戸に退却。
この時、会津や桑名藩士を置き去りにしており臆病で卑怯と評価する論もあります。
30歳で将軍に就任し、31歳で江戸城を明け渡し、寛永寺に蟄居します。
その後、徳川宗家自体が静岡藩に移封されたため、慶喜も静岡に転居し約30年間静岡で謹慎しています。
さて、慶喜は蟄居後は政治について一切語らなかったため本当に卑怯で臆病だったかどうかは諸説あります。
西郷隆盛をはじめ、坂本龍馬など維新の立役者たちが早世し、明治の3傑である大久保、木戸、西郷が明治10年に相次いで死んでいったのに比べて、慶喜は大正2年、歴代将軍最長の77歳まで生きています。
生存と子孫を残すことが動物の本能とすれば慶喜は動物としては優秀ですね。
戊辰戦争を最後まで戦っていれば戦死していたかもしれませんし、そうでなくとも隠居では済まされなかったかもしれません。
隠居後は潤沢な年金がもらえて、50人の使用人がいる2千坪を超える屋敷で趣味三昧。
ちょっと悪意のある書き方してますけど、将軍にまでなって30歳で隠居なんてそれほど楽しいわけでもないとは思います。
それに、江戸城に比べたら2千坪の屋敷って狭!って感じでしょうか。
趣味は写真、絵画、狩り、投網、囲碁、歌謡、刺繍、自転車。
当時写真や自転車は貴重品で普通は持ってない。
元将軍なら狩の趣味は何となく理解できる。刺繍? まあ当時の時代背景があるんでしょうしそもそも趣味なんて自由ですからね。
さて、自分は定年後、どんな趣味を選ぼうか。