この本もとてもわかり易くてさすが吉川弘文館さんだと思います。
何度も読み返す価値あり。
内容が濃くて感想文書ききれないので、前半の慶喜に関連する部分だけの感想です。
一口に幕府といっても、開国派も攘夷派もいるし、各藩や朝廷でも同じ状況。
短期間で意見主義が変わる人物も多く、一口に開国派とか言えない。
慶喜も同じで、政局を敏感に察知する能力が高かったので、政局に合わせて行動も激しく変化していったようです。
さて慶喜が活動していた時期の京都の2大問題は「長州征伐」と「通商条約問題」。
・通商条約について、江戸幕府は外国と接触の過程で開国は避ける事ができず、横浜閉鎖も困難と考えていたが当時はすでに朝廷や西日本の大藩が幕府に従わず攘夷を主張しているため妥協案として横浜閉鎖を方針とした。
慶喜も当初は横浜港閉鎖を主張していたが、これは通商条約を破棄せず、一部改訂を目指すもので孝明天皇も兵庫港閉鎖の希望でもあったので当時はやむを得ない妥協策だったようです。
通商問題は攘夷や開国を建前にしているだけで、本音は政権の座に就きたいという幕府・朝廷・各藩の政争だったので、通商条約問題単体でははどうしたってまとまらないし、そもそも外国からすれば条約の完全履行以外は受け入れられない。
結局、各国艦隊の下関砲撃などの脅迫で条約の改定案は消えてしまいます。
次に長州征伐問題。
将軍を中抜きして、天皇が西日本の各藩と相談して長州征伐の勅命を出そうとしていた。そうなると形式的に天皇から移譲されていた大名への命令権が天皇に返還されることとなり、将軍の権力は低下する。
だから将軍家茂は2万の兵で大坂城に入り長州征伐の会議に参加する必要があった。
このタイミングで大阪湾に入った外国艦隊が天皇の開港勅許を求めて脅迫したため混迷が深まった。徳川幕府老中は家茂の大政奉還を朝廷に提出する。
「諸外国を敵に回して勝ち目はないので、早急に通商条約の勅許を頂きたい。鎖国できなかった責任をとって自分(家茂)は引退して慶喜に相続して江戸に帰る。」という内容。
あれ?簡単に政権放棄するな?でも、これって徳川幕府が朝廷を脅したんですね。実際に実務を担当する能力も武力もないため、朝廷は大政奉還をなだめています。
慶喜は大政奉還を聞いて仰天した。自分が家茂にとって代わろうと画策したと思われるのも嫌だし、このタイミングで将軍になっても老中を統制できない。慶喜自身が家茂の江戸帰京の行列を待ち受けて、老中を怒鳴りつけて大坂に押しとどめ、慶喜自身は条約勅許が出されるように朝廷や各藩に働きかけた。
結果として勅許が出され、通商条約問題がやっと解決したんですね。
これを読むとみんな将軍になりたくないんですか?と思うかもしれませんね。
沈みかかった船長になりたくないし、もし将軍になるなら朝廷や各藩、幕府の老中から商人されて権力を持たされて将軍にならないと意味がないという事なんでしょう。
実はこの時、家茂の老中は、外国勢力を使って、朝廷や大名を廃止して徳川家が大統領になるという案を持っていたので大政奉還しようとしたんですね。
当時、朝廷と各藩が連携して鎖国や天皇親政や大名連盟政権を目指していたので、それに対抗して、言う事を聞かなくなった天皇や大名を廃止して将軍を大統領にして権力を集中しようとした。
まあ、大統領は選挙制なのでなぜ徳川家が大統領になれる前提かは不明ですが。
家茂が2万の大軍で大坂城に入って長州征伐の会議を行うタイミングで外国艦隊が大阪湾に入って通商条約勅許を恫喝したことは、幕府老中が外国勢力と内通して通商条約の勅許を出させようとしたのではないかと慶喜は疑っています。
次は長州藩処罰問題。朝廷と幕府が一致して長州征伐を行っているのに、各藩はサポタージュしています。
つまり徳川幕府につくか、朝廷につくかではなく、各藩連合政権の方が良いとの考え。
薩摩と長州で支援の密約があり薩摩もサボタージュ。
戦力的には、長州は「隊」組織による整然とした戦闘組織により、幕府軍を上回った。
そんな時に大坂城で家茂が21歳で急死。
春嶽は慶喜に対して、徳川宗家を相続したうえで、大政奉還し、徳川宗家も御三家同様に一つの大名になる事提案をしていますが、慶喜は当然拒否。
親藩の春嶽がなぜ大政奉還を提案するかというと。親藩であっても幕府の参政権がないので徳川幕府を延命するメリットが少ないと考えたのでしょう。
しかし慶喜と信頼関係のあった孝明天皇の合意もあり慶喜は将軍として就任します。
ところが20日後、孝明天皇が急死したことで慶喜は後ろ建てを失います。
次の明治天皇は当時16歳であり、薩摩藩と内通した廷臣が復帰して後見した事で慶喜は一挙に不利になります。
その後、薩長は慶喜との話し合いに失敗して武力による大政奉還を目指します。
話し合いでは慶喜はうまくやっていたんですが。
その後、土佐藩や芸州藩などからも幕府に大政奉還の建白がなされます。
これには薩摩、岡山、鳥取、阿波徳島藩の賛成もあり、大政奉還は避けられない時流に見えます。
慶喜の失敗は大政奉還したことではなく、大坂城から京へ兵を進めたことのようです。
これで明確に朝敵となり薩長と武力衝突してしまいます。
戦国時代の転職王、藤堂藩が幕府軍を裏切ったことから形勢不利が決定します。
新政権における慶喜の政治生命はこれで絶たれます。
話し合いで新政権へ移譲するのと、戦いに負けて移譲するのでは大分違いますね。
慶喜は大坂城の兵士を見捨ててひっそりと首脳陣だけで船で江戸に逃げ帰ったことで後世の評価も下がります。
自分は不戦論だったが、薩長への敵対心から部下たちが勝手に京都に攻め上ったという事になっています。
残された兵士は翌日呆然として散会したとの記録が残っています。
それまでは機知に長けて活躍もしていた慶喜ですが、鳥羽伏見の戦いで一挙に歴史から消えます。
江戸にもどってからは勝海舟に官軍との調整を任せ、春嶽や容堂に徳川家存続を託して自分は寛永寺に引きこもります。
大久保利通などは慶喜切腹しかないと主張しましたが、勝海舟と西郷隆盛の会談で、
江戸を戦火にさらさないで、幕府の資産をそのまま引き継げるなら慶喜の首より価値があると説得して助命されています。
慶喜の恭順が素早く徹底していたこともあり反乱の意図なしと判断されます。
薩長とすれば恨みより実利を選択した。