teinenchallenge’s blog

普通のサラリーマンが充実した定年後を目指します

靖国神社と北の丸

f:id:teinenchallenge:20210223204928j:plain

田安門

 

四ツ谷駅で降りて外堀沿いに市ヶ谷まで歩きます。

四谷桝形石垣の説明版を読む。

熊本藩細川家記録によると、寛永の外濠普請で伊豆半島から1万3千石が運び出されたそうです。

細川家といえば品川に広大な屋敷を構え、赤穂浪士切腹の介添を自藩で出せるほどの大大名ですから普請の負担も大きかったと思われます。

肥後藩主細川忠利は、「とかく日本もくたびれは止み申すまじく候」と書き残しています。

 

 

市ヶ谷で靖国神社に向けて右折。

ここでやたらとパトカーや右翼の街宣車が走っています。

あれ?今日は何の祝日だっけ・・天皇誕生日ですね、納得。

さてついでなので東郷元帥記念公園に寄り道。

工事中です。説明版を読みます。この辺りは番町になりますが、大村益次郎鳩居堂永井荷風国木田独歩与謝野鉄幹なども住んでいたようです。

地方出身者から見れば、番町に限らず外濠の中を歩いていると、国会や国の主たる公官庁。マスコミ、企業の本社、各国大使館が並んでいてエリートが住む場所だなと感じます。

 

東郷元帥はバルチック艦隊を破った事で有名です。

個人的には第二次大戦には興味がありますが、日清日露戦争はほとんど知識がないのでパス。

暫く歩くと靖国神社

ここでゼロ戦大村益次郎の像を見ます。

江戸城歩きの趣旨からすれば大村益次郎の話題を選ぶべきでしょうが、昔第二次大戦の本もよく読んでいたのでその時のうろ覚えをかきます。

ゼロ戦はスピードや旋回性能を高めるために座席周りの鋼板が薄く、敵の銃弾があたればひとたまりもなく墜落したそうです。

一方グラマンは鋼板が厚く、銃撃されても乗組員は守られたそうです。

日本の軍部はゼロ戦の性能が高ければ銃弾を浴びる事はないので良いと考えていたそうですが、戦闘機は上空にポジショイングした方が有利となりますし、圧倒的な数の差があればやはり有利となるため後半にはゼロ戦でも不利になったようですね。

人間の命をどう見るかが戦闘機の設計にも反映されます。

またゼロ戦は空気抵抗を減らすためにビスを全て埋め込んでおり、軽量化するために座席の鉄板にも穴が開けられており当時としては画期的で高い技術だったようです。

今で言えばFIカーみたいなものですね。

また、真珠湾攻撃では日本から6千キロはなれたハワイで、空母6隻が約3百機の戦闘機を運用して攻撃したわけですが、大変高度な戦略だとの評価もあります。

だって飛行場の発着を見ても一度に100機単位で発着させて衝突しないなんて神業ですよね、しかも海上で移動している6隻の空母が短い滑走路の替りですよ、カタパルトもないから訓練してないと海にドボン。空母もどれがどれだかわかりませんし、旅客機みたいにレーダー誘導されるわけでもないし、無線と言っても一度に100機とか無線で制御できない。

アメリカは暗号を解読して知っていたといわれますが、こんな空母運用は世界で初めてだったので予測できなかったと思います。

まあ、現代の戦争は核兵器や情報戦が主なので、今後も複数空母による作戦は行われることはないだろうといわれています。

まあ戦略がいかに優れていても戦争は悲惨であり一切肯定しません。

 

さて、話を令和に戻しましょう。令和元年は150周年だったらしく、全国の県の靖国神社から桜花形の陶板が寄贈されて境内に設置されています。

各県の特徴が出ていて、郷土の土で作成されており見ていて飽きません。

 

神社を出て陸橋を渡ると田安門へ続く坂道の入り口です。

九段坂の常燈明台が」あります。明治初期には品川沖から見えたとの事、当時の地形を偲ばせますね。

説明版に夜の絵がありますが、当時は付近に人手が少なく気味悪い場所だったのかもしれません。

説明版に幕末の田安門の写真があります、写真を撮影した同じ場祖から見ると門の上に武道館の光る玉ねぎが目立ちます。

当時を想像したい人にとっては幻滅する景色でしょうが、100年後には武道館も史跡の一つになっているかも知れませんね。

江戸は歴史がありつつも世界屈指の都市であり続けているため、歴史の景観が変わってゆくのもやむをえないでしょう。

日本の経済力もバブル崩壊以降長期低迷しているので、お金をかけて景観を保存しつつ都市を発展させる余裕はないでしょうね。

コロナ禍の前までは観光都市を目指していいたので色んな説明版やホテルは整備されていますが・・。

コロナでイベント少なめの武道館を通り過ぎて清水門へ向かいます。

個人的には清水門の辺りが城の防備の構造がわかり易くて好きです。

自分が城を攻める立場になったつもりで橋から城内に入ってみました。

橋を渡るところから上から鉄砲や矢で撃たれますね。

そして清水門を入るために右折したところで桝形の三方から撃たれます。

清水門を突破してもそこははやり桝形で土手に囲まれています。

そこから階段を上っていくため常に上から撃たれる構造になっています。

 

千鳥ヶ淵縁道から淵を眺めるのを楽しみにしていましたが全て立ち入り禁止になっていました。

旧近衛司令本部である近代美術館別館も移転して立ち入り禁止です。

 

その後戦没者墓苑へ行きましたが、これも工事中で園内には私以外誰もいませんでした。

世界大戦ではインパールから南洋諸島に至る広範囲に戦線が拡大しており、名もなき戦没者の遺骨や遺品が回収されたさまが地図で示されています。

地図で戦線を見るとその広さに驚きます、資源もない日本が、英米中と戦って一時とはいえこの範囲を占領したのですから。

しかしその陰には膨大な戦死者がいたのですね、靖国神社で「死の鉄道」と言われた泰緬鉄道建設の説明を見た後ではミャンマーのジャングルで死んでいった兵士の鎮魂を願わずにおれません。

 

江戸時代の大火で北風から江戸城本丸への延焼を防ぐために北の丸公園とその周辺は火除け地が多かったそうです。

ですから明治以降軍司令部や学校や靖国神社ができたのでしょうね。

また土地買収や工事がしやすかったので外濠沿いに高速道路や地下鉄もつくりやすかったとの事です。

 

徳川3代将軍により築かれた江戸城と外堀と上水が、現代の環状線や地下鉄や丸の内、霞が関を形成しているわけですね。

京都の皇居は土塀こそありますが城郭はありませんし濠もありません。

京都は盆地なのでお濠を巡らせる地形ではない。

鎌倉時代以降天皇は自らの軍隊を持たず、その時々の有力な武士や寺院の武力を利用するため自ら武装していなかったのだと思うのです。

天皇には権威はあるが、権力や武力や富はないので城郭がなくとも誰も攻撃しない。

したがって、江戸城がなければ皇居は城郭にはなっていないと思うのです。

それこそ赤坂御所のイメージです。

 

今日の出費は交通費約300円とお握り2つで300円。

2万歩以上歩いて健康になって、脳内トリップで十分楽しめます。