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素顔の西郷隆盛

「素顔の西郷隆盛」磯田 道史氏  新潮社

磯田先生の本が読みたかったので、興味のない西郷隆盛の伝記を読みました。

本当に西郷に興味があるなら、著者が参考にした本「西郷隆盛詳傳」村井弦斎を読めばもっと詳細な内容がわかりそうです。

詳傳自体が現在から100年以上前に書かれており、西郷死亡から20年後という事ですので今よりは正確な証拠や証言が得られたと思います。

 

西郷隆盛は写真も自伝も一切残していませんが、逸話が多く、普通の人の価値観と異なりすぎてどうしても人物像がわかりづらいです。

 

西郷は神格化されてしまい、西郷なくして明治維新は成し遂げられなかったと言われています。

私は、プロセスは変われど西郷がいなくとも明治維新は起こったのではないかと思います。

戊辰戦争岩倉使節団の留守政府など重要なイベントのたびに他に人材がおらず鹿児島から招へいされていますので、明治維新屈指の立役者であっただろうことは推察します。

 

しかし、世界中が植民地と貿易時代を迎え、260年以上不変だった江戸時代の分制度や経済体制が陳腐化しており革命は避けられなかったと思います。

 

西郷隆盛が形成されたと思われる大きな要素はいくつかあるようです。

まず「薩摩藩」「島津斉彬」と思います。

私は仕事で南九州地方に6年ほど住んでいたことがあります。

鹿児島を含む南九州地方は現在でも男性を立てる風土が残っています。

武芸が盛んでマッチョでスパルタ教育で質実剛健の気風は何となく想像できます。

平成半ばころまでは鹿児島の多くの個人宅では西郷の絵が飾られていました。

幕末においても200年以上前の島津義弘関ヶ原の戦いで負けて苦労した事や、朝鮮出兵の苦労を教訓にして武芸を磨く風土があったとの事ですが納得できます。

 

また幕末の鹿児島の地域の青年会では記念日に曽我兄弟や赤穂浪士の討ち入りの物語を輪読して解説するする習慣があったそうです。

幕末においても忠義や敵討ちが大切だと教え込まれていたのですね。

当時は23歳になるまで酒もたばこも禁止で、女性の噂をしたら青年会で評定し一切口を利かなくして切腹させるのが習慣だったそうです。

英雄崇拝で縦社会です。

民族としては薩摩隼人、南方系で顔の彫りが深く、本州の平均身長より15センチ高い。

狩猟民族で狩りが習慣。私も九州在住時に知り合いが狩猟で仕留めた鹿肉を分けてもらったことがあります。九州は山深く自然が残っているので猪とか鹿猟は普通に今でもやっています。登山が趣味で霧島山に毎週登っていましたがよく鹿には遭遇しました。

何が言いたいかというと、現代においても東京からすれば異国のような雰囲気があるので、幕末であれば江戸からすれば異国だったと思います。

 

西郷が11歳の時に武者参りで喧嘩となり腕を切られてから不自由だったそうですが、薩摩藩は気風が荒く、子供の喧嘩ですまされています。

郷中教育によるブレストが教育に役に立ったとかいてありますが、郷中教育とは何か興味が湧きました。こうして学ぶほどに新たな宿題が増えて、永遠に学ぶ事が発生します。

西郷は郷士(下級武士)出身で貧しく、若くして父母を無くして兄弟も多くて貧乏だったそうです。だから武士とはいっても農民に近い目線があって、武士が農民から搾取する現実を身近に見て育ったため身分制度は悪い制度だと考えていたそうです。

明治維新は武士が武士の世を終わらせたといわれますが、武士と言っても色々なんですね。

 

若い頃の西郷は自ら先生を見つけて色んな勉強をしており学問への意識が高かった。

西郷が読んだ本のリストがあるようです。「四書五経」「資治五経」は294巻もあるそうです、「大日本史」なども読んでいる。

凄い勉強家ですね。

 

興味があったのは、西郷が仕えた島津斉彬の曽祖父はオランダかぶれで、斉彬はオランダ語を学んだり、爆薬を作る化学式を学んだりしていたようです。

日本中の大名の子弟で外国語を学んだ人が何人いたでしょうか?

鹿児島の旧集成館には2回ほど行ったことがありますが、反射炉や紡績、蒸気船、ガラス細工工房などが残されており明治維新の武力の源泉を感じることができます。

旧集成館は錦江湾沿いに桜島を遠望する場所にあり、近くに民家やビジネス街がないため、芋焼酎をのんで酔っ払いながら景色を見ていると江戸時代にトリップできます。

 

 

戦国時代の価値観が残る一方、琉球や海外との接触により技術や知識は開かれていたのが当時の薩摩藩であり、これを実感するとなぜ明治維新で薩摩が活躍したのか理解が深まります。

あとは知覧城下町に行くと、薩摩の特殊な麓と呼ばれる外城の仕組みが体感できて、薩摩は江戸幕府治外法権であり、常に江戸幕府への反発があったことが理解できます。

当時オランダ語の通訳官がいたのは幕府と佐賀藩薩摩藩だけだそうです。

長崎のオランダ語通訳官から養子を迎えて通訳部隊を作って海外情報を収集していたそうです。

鹿児島の南の離島には外人とイザコザが発生しており攻撃されるリスクを身に染みて感じていたため、黒船来航を予言していたそうです。

26歳で江戸に出た西郷は庭方役として水戸や越前藩との外交役をしていた。

庭方とは諜報活動、インテリジェンス活動と表現されていてわかり易い。

 

この時のスキルが後年、戦略家、政治家としての情報収集能力を育てたそうです。

 

当時各藩の有志が集まってオランダ語を読む会が開かれていたようです。

山内容堂、橋本佐内、宇和島伊達宗城、春嶽などが参加しており、特に佐内が優秀なので司会役になったとの事。

維新で活躍した藩はトップが海外への理解があったという事ですね。

安政の大獄は幕府が反乱分子を処刑したというより、幕末最高のインテリジェンスと言われる、佐内、松陰を井伊直弼が処刑する事で長州、越前藩の外交力を削ごうとした事が理解できます。

 

話題はそれますが、朱子学陽明学の違いが記載されていて興味深い。

自由と民主主義の現代に育った私には難解で理解しがたい理屈ですが、歴史を学ぶ上では必要な知識だと思いました。

江戸時代を通じて武士の教科書のような位置づけだったようなので、この価値観を理解する事が有益かもしれないです。勉強することがまた増えました。

朱子学のテキストは「大学」であり、「格物」「致知」「修身」「斉国」「治国」「平天下」からなるとの事。そうだったのか!儒教思想なのだね。世の中にある現状を理解し受動的に受け入れる事から始まる。  一方で

陽明学は現状を理解し、本来あるべき姿に正す。能動的教えでありその点で真逆。

天皇より将軍が偉いのは本来の姿でないから正さなければいけない。尊王革命思想。

だから幕府が認めない危険思想。吉田松陰に代表される。

斉昭の水戸学もその点では陽明学に近い。

だから水戸藩出身の慶喜は朝敵となることを恐れて鳥羽伏見の戦いから逃げて隠居したのですね。

 

西郷に戻ります。30歳の頃、錦江湾で幕府から追われていた勤皇僧月照と心中事件。西郷は3日意識不明となるが生き残る。

自殺して西かけた経験によってここから命知らずになるようです。

学生の頃習った西郷が理解できなかったはずです。

人生の経験値や価値観があまりにも常人とは異なる。

31歳で奄美流罪となり現地妻に子供ができる。

奄美は奴隷社会で西郷はヒザを開放した)

33歳で久光公に公武合体のため呼び戻される、

34歳で久光公をジゴロ扱いして徳之島で3m四方の風呂無牢屋に3年間監禁。

最後は歩けない状態になっていたそうです。

36歳で禁門の変の指揮や長州征伐の収拾のため召喚。幕府軍3名で長州に入り、長州3家老の切腹で戦争を回避する事に合意します。征伐軍の参謀の身分であり交渉に失敗すれば殺される可能性がある単身敵地に乗り込むリスキーな戦略。

40歳で鳥羽伏見戦を指揮

奥羽列藩同盟を破ると鹿児島に帰ってしまい温泉三昧。

明治2年天皇から賞典禄。 正三位  年収3億円相当を生涯支給。

西郷は大久保に怒った。今は新しい世の中を作るため。海外との交際もあり、軍備を増強しなければいけないこの時期に無駄なお金を使うなと言って返上。

大久保や岩倉が東京で豪邸を立て、酒色におぼれ、豪奢な生活になる中で、西郷は鹿児島で酒も飲まずに質素な生活。西郷は陸軍大将。陸軍海軍警察は薩摩出身者が占める。

日本橋の家がみすぼらしすぎて岩倉から新築を進められるが興味がなかった。

毎月の給料は現在の価値で1800万円、現金が自宅にレンガのように積まれていたそうです。

贅沢どころか、並みの生活にも興味がなかったのでしょうね。

 

私にはまったく理解できません。

酒や贅沢な食事に興味はありませんが、月収1800万円なら、大きくなくても趣味的な家を建てたいですね。

別荘も欲しいな。

 

磯田先生らしい解説として、西郷の文字の分析が面白かったです。

同じ大きさで規則正しく並んでいて、行間も等しく、最後まで文字が小さくならない。文

字を書く前に時数や文章を決めている証拠。文章を決めてから書いており、考えてから書くまでの間に溜めがある。計画性があり、精神的に落ち着いた状態との事。

一方、坂本龍馬高杉晋作は計画性がなく、思いついたことを書きなぐるため最後の方になって行が足りなくなって字が小さくなっているとの事です。

大石内蔵助も西郷とよく似た文字だそうです。

 

最後は西南戦争で自害、49歳。

死んだときには肥満で心臓病、帰省中で肥大化した睾丸、皮膚病などで検死したそうですから長年のストレス、流刑や質素な生活が偲ばれます。