teinenchallenge’s blog

普通のサラリーマンが充実した定年後を目指します

文明としての江戸システム②

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湯舟沢村宗門人別改帳

「文明としての江戸システム」鬼頭 宏 先生 講談社

 

この本の読書感想文は難しいです、気軽な読書感想ブログとしては荷が重く、本の内容と齟齬があったらご容赦ください。

できれば本を読んでいただきたいです。

データや表、グラフを言葉で表現するのが難しい。

内容が正確なので、デフォルメしにくい。

江戸時代270年の日本全体の分析なので範囲が広くて短文で説明できない。

 

 【2章】より

日本は「宗門人別改め帳」「過去帳」等により世界で最高の歴史人口史料が揃っているそうです。

私の実家の仏壇にも過去帳があるのをついこの前発見しましたが、確かに家系の人数や死亡年齢を分析できます。

近世でこんなデータが揃っている国はないそうです。

だから江戸時代の日本の人口動態は比較的正確に把握できるそうです。

後で記載しますが、江戸前期に日本の人口は約2倍になったそうで、世界の歴史で見ても、産業革命を除けば歴史的に急増と言えるそうです。

なぜこの時期人口が増えたのかが分析されていますが、農業の生産性が上昇したそうです。

 

生産性が上がった理由としては市場経済化により余剰に作った農産物を販売する事が出来るようになった事があるそうです。

江戸は武士の町なので、江戸の生活を支えるために全国から米を始めとした物資を江戸に出荷する必要があり、それが流通と交換による市場経済を発達させたようです。

例えば江戸人は大酒飲みですが、樽廻船により近畿から清酒を出荷したため近畿では酒造量が増加したと思われます。

農地で考えれば、頑張って収穫が増えれば販売して現金を得る事ができるのでモチベーションアップになり、土地を開墾し収穫量を増やすために品種改良や肥料を工夫するのですね。

日本のように水稲裁判で棚田や矮小地での農業は労働集約的であるため、狭い農地に手間をかけて効率化することがベストのようです。

私のイメージでは小規模農家より大規規模農家の方が生産性は高くなると思っていましたが、現代のようにトラクターやヘリの農薬散布とかできなくて全て人力でやるなら機械化できないってことですものね。

それから、昔の大規模農業は奴隷を雇って荘園を経営していたのですが、使用人である奴隷は頑張って収穫量が上がっても自分の収入は増えないので自ら工夫して真面目に働かない。

小規模の家族経営農家の方が工夫するから一単位当たりの土地からの収穫が多くなるそうです。

大名も年貢を増やすためには領地の石高を上げる必要があるため、家族経営の農家を増やしたそうです。

奴隷や部屋住みの次男は新田開発した農地に植民する。

地域差が大きいそうですが、江戸時代の女性は平均5人の子供を産んだそうです。一見多い印象ですが、西ヨーロッパの前近代の女性よりは少ないとの事。

離婚率は大まかに2割程度だったそうです。

離婚と再婚も多かったようです。これは、嫁とりは労働調達手段であり、家を存続させる出産が優先課題であるために働けないとか子供が生まれない嫁は離縁された。「3年以内に子供が出来なければ離婚。」との諺もあるようです。

女性は労働と出産機能しか求められていないってこと?愛はないのか?

生活するのに精いっぱいだったんでしょうね。

狭い家に姑さんと5人くらいの子供がいるわけですしね。

著者が調べた村では結婚している夫婦の男性の3割、女性の4割は再婚だったとの事。

再婚が可能ならば離婚もしやすかったでしょう。

 

・下層農民の娘  →  10代から村外に奉公に出ており、村に戻ってから結婚する。

            栄養状態も悪く、間引きもされるため家族が増えない。

・上層農民の娘  →  奉公はせず、親元で生活しており早婚。栄養状態が良く早婚    

            のため出産可能期間が長い。

こんな理由で裕福な農家ほど子供の数が多く、家を存続させる確率が高いそうです。

江戸時代の農村では住居費や教育費の負担が少なく、「食料」が獲得できるかどうかが子供の数と比例するんですね。

ライフサイクルの表が掲載されていて面白いです。

江戸時代  26歳結婚、61歳末子成人、62歳夫死亡

昭和30年代 28歳結婚、52歳末子学卒、77歳死亡

つまり江戸時代は61歳で息子が成人して62歳でが死ぬ。

父親は死ぬ間際まで子供を養育しなければならず、子供が独立して余生を楽しむという期間が無いという事だったようです。

働き詰めの人生です。定年後は海外旅行とか、悠々自適とかはない。でも、老後の生活資金や介護を心配する必要はなかったでしょうね。老後が無いのですから。

仮に60歳を超えて生きら、江戸時代は還暦で家督を相続するのが普通であり、家の運営や財産の処分権は子供に移ってしまいます。

長生きしても結局お金が無くて老後を楽しむといった感じではないし、寒村にいくと姥捨て山の風習にあるとおり口減らしの対象になる。

 

【三章】

江戸開府の1600年頃の日本の人口は1600万人程度

吉宗治世の1720年頃の同上 3100万人程度

1840年頃の同上  3100万人程度

 

つまり江戸時代前期に激増し、中期以降は横ばいとなっている。

江戸前期の人口増加率 0.8%

明治維新 1%。明治維新は石炭燃料への変換や海外の技術導入など革命的に技術が進歩し生産性が劇的に向上しました。 

ではなぜ鎖国して海外からの技術導入がない江戸前期に人口が増えたのか?

戦国時代の終で平和になり安心して農業ができるようになった。

戦争に使っていたエネルギーを開墾、溜池、堤防など公共投資に向けられた。

江戸という巨大マーケット、消費地の出現により市場経済化された。

地方の農村が利潤動機に基づいてより多く生産する努力をした。

繰り返しですが、農業の生産性向上により家族経営の小規模農家が増えたそうです。

信濃国における世帯所属人数の推移

1670年には4つの地区で12人~7人が1世帯に所属していた。

1850年代には4つの地区すべてが4人台になった。

水稲農耕は小規模家族経営が一番生産性が高い。

農奴は結婚しないが、農奴が減少したため逆にいうと結婚する人が増えるという事。

世帯人数が多いほど農奴が多く、4名世帯に農奴はいない。

市場化が進んでいた畿内農家は早くから4人家族。九州や信濃は大規模家族が多かったが、市場化に伴い零細化して行った。

17世紀を通じて一人当たりの農地面積は半分になった。

 

江戸時代諏訪郡の前期と後期の女性の出生率は8人から4人台へ減少した。

当時避妊技術は無かったので、堕胎と子殺しが行われたと推察されている。

通常、男女比率は半々になるが、貧しい地域、貧しい世帯ほど男児の比率が高く。

その原因は家を継ぎ労働力になる男児を残して女児は間引いたと分析されている。

 

実際に江戸末期には間引き防止のパンフレットが配られていた。

当時の為政者にとって出産率低下は人口減少となり農村荒廃、年貢減少になると考えられていた。

 子殺しを防ぐため、天領では小児養育料頂戴人 懐胎御届書を作成して養育費を支給していたそうです。

米価低迷に悩んだ吉宗時代には人口減少を疑って人口調査を始めた。人口が増えるように子殺しを禁止したい。→類憐みの令により子殺しも防げるのではないかと考えたのではないでしょうか。

  

江戸後期、江戸の人口のうち、江戸以外の出身者は約2割程度。

北関東出身者は浅草、本所、深川エリアに集中、日本橋、京橋、赤坂は近畿圏出身者が住む。

出身地への街道沿いに住む。あとは越後屋駿河屋など大店の奉公人が日本橋に住む。

四谷には紀尾井藩の屋敷があったため、紀州出身地が多く住んでおり、その大名屋敷に出入りする商人や奉公人も紀尾井出身者。

 

 江戸は参勤交代で単身赴任中の武士の町であり、かつ天下普請など肉体労働のため地方から男性を集めた。

その後、街づくりが落ち着いて歴史を重ねる事で男女比率が平準化されています。

1720年享保 女性1対男性1.7

1830年天保 女性1対男性1.2

1867年慶応  1:1.02

 

話は変わりますが、人口増加を支えた新田開発も説明されています。

まるで列島改造のようです、江戸時代には環境破壊がすごかったようです、 信玄堤、荒川瀬替、利根川瀬替、大和川付替えによりデルタ地帯に新田開発。

江戸時代には3回の新田開発ブームがあった。

西日本は海の浅瀬干拓、東日本は湖沼干拓

吉宗の時代、紀州から為永を呼んで印旛沼、見沼、飯沼、見沼、手賀沼、紫雲寺干拓を実施。

印旛沼手賀沼は失敗したそうです。ちなみに田沼意次印旛沼開発に失敗して失脚を加速させます。

これらの開発により浅瀬や沼は埋め立てられ開発余地が無くなっていきます。

 

江戸期の災害

江戸265年間で241年度に災害発生。675項目の災害。つまり9割の年度で災害が発生。

人口が増加し、食料生産のバッファが少ないためすぐに飢饉になる。

江戸時代は寒冷期であった事も原因ですが、人口が増えたため今迄人が住まなかった山や川の近くに住むため災害に巻き込まれる。

人口が密集しており地震→火事といった2次災害が大きくなる。

 

都市の衛生

人骨調査から江戸の成人人口の半数が梅毒にり患していたとの説がある。

成人男性が多かった江戸初期なら多いだろうが、それにしても・・

映画、吉原炎上でも遊女が梅毒で狂うシーンがありますし根拠があったんですね。

 

山林:燃料を薪炭に依存していた。築城など大規模工事に木材が必要となった。人口が増加した。伐採しすぎて河川氾濫が発生したため、各藩は伐採を禁止したり、植林する令を出したりしている。

江戸時代には既に環境破壊が起きていたんですね。

江戸後期には本土で木が減ってしまい、屋久島や松前からも木を運んだ。

 

江戸のごみは永代島に集められた。追加で猿江がゴミ捨て場になったが1年で一杯になった。富岡八幡宮門前町はごみの埋め立て。深川越中もごみの埋め立て。

人口の8割が江戸の2割の下町に集中したためごみも下町に集中したのだろう。

さすがに300年以上経過しているので土壌は安定しているでしょうが、大地震とか発生したら大丈夫でしょうか。

地中を掘ったら江戸のゴミが見つかるのかな。