高校教科書より
「同じ規格、品質で全国に通用する貨幣は家康の慶長金銀が初めてとされる」
「丁銀や板銀など秤量貨幣を鋳造」
「全国10か所で寛永通宝を大量に鋳造するなどして金・銀・銭の3貨が行き渡る。
成程、物の交換比率が決まっていなければ、物を交換したり売買するたびに交渉をしなければならず効率が悪かったでしょうね。
「吉綱の時代に幕府直轄の金銀の産出が減少、明暦の大火、などにより幕府財政破綻」
「勘定奉行荻生徂徠による貨幣改鋳で小判発行増加、貨幣価値低下」
「家治の時代田沼意次は財政再建のため南鐐二朱銀で初めて計数銀貨を鋳造させ金本位貨幣制度に一本化を試みた」
「新井白石は正徳小判により貨幣を元に戻すが、社会は混乱」
「幕府や大名は新田開発により年貢米を増やし、都市部で販売して貨幣収入増を図る」
「農村も綿、油菜、たばこ、茶など商品作物を生産し貨幣収入を得る」
- 当時は年貢主体経済でしたので、商品作物を増産する事は幕府に捕捉されない生産物が増えるという事。
江戸時代は藩のコメの石高によって幕府から普請が課せられたため、石高に反映しない商品作物を多く保有していた薩摩藩や長州藩は表の石高以上の経済力をもっていたようですね。
「宇治茶、琉球黒砂、紀伊ミカンなど大名の奨励のもと特産品化された」
これらの記載を見れば、江戸時代を通じて「財政破綻」「貨幣政策」「コメ政策」に苦労していたことが窺えますね。
現代のブランド特産品は、この頃に藩によって育成奨励されたものが多いのでしょうね。
単に耕作に適していただけではなく、江戸時代の市場経済の発達により特産品として藩に奨励されたわけで、自然発生的に特産品になったのではなく政策的に育成された。
当書(文明としての江戸システム)より
吉宗の時代以降は日本の人口が頭打ちとなっていたのに、幕府の財政のために新田開発を活発化させたためにコメが余剰となり、米価低下、幕府の年貢収入減、武士の生活苦、米農家の生活苦といった状況になっていたようです。
諸藩も幕府貨幣獲得のため大坂へのコメの出荷を増やした。
通常大坂で余る米は40万俵程度なのが、1730年頃には200万俵も余ったそうです。
そりゃ米価は下がるよね。
米価低迷の原因を把握するために吉宗当時の幕府は人口調査や商品の交易データ、産出量データを調査しており、それが現代に残っているようですね。
昔のデータが残っているからその後何百年も歴史経済分析が可能になるわけで、かけがえのない無形の宝だという気がします。
安政から幕末にかけて米価は11倍になったそうです。
10年程度の間に11倍って、そりゃ年貢経済は破綻するね。
明治維新で大名が廃藩置県に反対しなかったのは年貢を基盤にした藩の財政運営が破綻していたから、何もせずに俸禄が貰えて東京に住めるならその方が良いと考えたという事を読んだ記憶がありますが。
米価上昇の理由の一つに、開港により海外との金銀交換比率のギャップから銀貨の価値が3分の1に低下したため相対的に米価が上昇した。
開港による強烈なインフレで幕府や諸藩の財政悪化と民衆の不満が高まりました。これは攘夷運動のきっかけの一つとなったようです。
話は変わって江戸時代の決済システムの発達について
全国の藩は大坂の市場で米を売却し、その一部を江戸藩邸に送金していた。
当時西日本は金、東日本は銀が流通していたため、江戸に送金するときに金が銀に交換されるため銀の価値が上がった。
逆に、大坂から商品が東京に販売されると大坂に払う金が必要となり金が上がった。
面白いですね、金銀の産出量や海外貿易による流出は感覚的にわかり易いので知っていましたが、大坂と江戸の流通システムによって金銀相場が変動していたのですね。
そして上記の地方と大坂と江戸の流通のために手形決済が発達したのですね。
空米切手や先物である帳合米取引などが高度に発達した。
そりゃそうだ、重たい米や貨幣をやり取りするより手形をやり取りした方が効率的。
でも手形って結局「信用と安定」が無ければただの紙切れや口約束なので、当時の江戸時代が安定していて信用できる商業取引が行われていたという事でしょうね。
実際に天保の改革で株仲間が廃止されると、流通が混乱してしまい株仲間が再度認められたようです。
当時は民間の経済取引で契約履行するためのルールや保証制度が無く、御家人などの武士が相手の場合は商人からの訴訟は認められておらず、当事者間の協議に任せられていたそうです。
株価仲間により組織的にルールや契約履行や罰則をつくらないと商取引の信用が担保されなかったようです。
金銀銭の3貨幣に加えて実質的に貨幣的な米も含めれば4つの相場が変動する複雑な時代であり、「生産者→仲買→問屋→小売→商品者」という複雑なルートを効率的に物流するには信用取引が必要でした。
教科書では「田沼意次は財政再建のため南鐐二朱銀で初めて計数銀貨を鋳造させ金本位貨幣制度に一本化を試みた。」となっていますが当書では詳しく記載されています。
南鐐二朱銀は銀貨なのに、無条件に二朱金貨と交換が約束されたため、金貨として扱われたという事です。
そして、田沼意次が失脚後に松平定信により廃止されたため、教科書では「試みた」になっているのでしょうか?
その後定信が失脚後に南鐐二朱銀は復活し、明治に向けて金貨本位に統一されていったそうです。
印旛沼干拓、蝦夷地開拓、銅やアワビやフカヒレ輸出奨励、株仲間公認による冥加金の増収、貸金会所設立など意次失脚後に廃止された政策は、一部からは「近代日本の先駆者」との評価があるようです。
実際に後に復活された政策が多いようです。
干拓は当時の人口増加や米価上昇に対応する政策。輸出は流出した銀を海外から回収する政策。冥加金は市場経済化により補足できない課税対象を解消する政策。貸金会所は増加する貨幣経済と手形経済に適合するもの。と分析されています。
当時の武士はお金は汚いもので、金儲けを考えてはいけないという価値観でした。
また許認可権をもつ役人の贈賄が増加し、新しい提案をしたもの勝ちの実力主義のイケイケどんどんの風潮を快く思わない勢力や、冥加金を取られる商人からの反発勢力もあり失脚したと思います。
「栄花物語」より
権力としての幕藩体制は藩の中だけで土地をベースにした年貢により成立している。
ところが江戸後期は貨幣流通と市場経済発達により商品経済が増大した。米以外の加工品は藩の垣根を越えた分業となり、藩の外へ輸出される事で価値を生む。つまり幕藩体制と現実の経済活動に矛盾が発生していたのですね。
現代においてもGAFAがグローバルに提供するデジタルサービスに対して、各国が課税できない問題がありますが、物や現物サービスいがいのデジタル空間サービスへの課税は現実の国境の矛盾を現わしているのかも知れません。