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吉原

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吉原

最近朝日新聞東京地域版に広重の絵が連載されています。
吉原日本堤を見て現地に行ってみたくなりました。
交通費節約と歩数稼ぎのため、春日駅からアプローチしました。

駅をでて西片交差点から北東に向かって清水谷を歩きます。
台地は福山藩阿部家中屋敷があり、その谷筋です。
両側を台地に挟まれ、更に明らかに東大のある本郷台地に向かって上り坂となります。
本郷弥生の交差点を経由して言問通に出ます。
コロナ緊急事態のせいで東大構内に入れません。
東大には弥生時代の遺跡跡や加賀藩庭園跡の三四郎池がありますが諦めます。
水戸の徳川斉昭が3月弥生の頃に詠んだ歌碑を屋敷内に建てたとの由来があります。
それが地名となり、そこで発見されたので弥生人になったんですね。
このルートを歩くと旧加賀藩の屋敷が高台にあった事が体感できます。


6代将軍家宣の産土神を祀る根津神社に向かいます。
黒塗りに金箔と葵紋のついた楼門はいかにも徳川家のゆかりを感じさせます。
社殿は綱吉造営で荘厳とした雰囲気があります。

西門の透塀で仕切られてはいますが、真横には周辺の道路拡張により移設された6体の庚申塔や稲荷神社の赤鳥居があります。
赤鳥居道は長く、途中で池に張り出した舞台のような乙女稲荷が美しいです。
神田明神も同じですが、周囲の開発により最後に残った神社に色んな神様が移設されて集まってくるんですね。

庚申の夜は三戸の虫が人体から抜け出て天に昇り、天帝にその人の罪を告げて命を短縮すると説かれた。
見猿、言わ猿、聞か猿の3猿のような慎み深い生活をする事が良しとされ、庚申の神の使いとされたそうです。
そういえば、日光東照宮にも左甚五郎の3猿がありました。

さて、言問通に戻ります。
谷中には寺社が集積しており谷中台地には60近い寺社が密集しています。
理由を調べてみると、寛永寺の分院が多く、防火のため神田から移動させられたことで密集し、戦災を免れたため残ったという説がありますが真実は不明です。
この一帯は民家と寺社の数のバランスが取れていない感じです。
檀家をどうやって維持しているのでしょうか。

2、3の境内に入ってみましたが、ポツポツとお線香をあげる姿が見えます。
今月は実家の父の遺骨を墓に入れるため関西に帰省しますが、こうやって日々焼香におとずれる習慣はありません。
他人の信仰を否定する気はありませんが、日本は葬式仏教であり、
生きている間には役に立たないという話を読んだ記憶があります。
現世で救われたいと考える事が煩悩と言われそうです。


寛永寺に到着しましたが、緊急事態宣言もありひっそりとして人影はありません。

看板には、彰義隊の兵火で本堂が焼失し、川越の喜多院から移築されたとあります。
寛永15年とあるので時代として貴重な建築物であることは間違いないですが、やはり将軍家の菩提寺の本堂は違う寺から移築されたことはちょっと意外でした。


そもそもは江戸城の鬼門を守るため建立され、その後、家綱の霊廟により菩提寺となり、さらに皇室から輪王寺宮を主に迎えた事で発展している。
しかし、明治維新や震災、戦災により一般の檀家に開放され、将軍の霊廟は片隅に追いやられたような雰囲気を私は感じました。
400年に及ぶ歴史寺の歴史は他に真似できない競争力なので、徳川霊廟ももう少し保全して欲しい気がします。
ちなみに慶喜天皇に習って神式を希望したため谷中霊園に埋葬されています。
水戸藩出身で天皇から許されて生きながらえ、公爵となった事から、天皇と同じ神式墓にする気持ちは理解できますし、将軍在位1年なので将軍との自覚も薄いとは思いますが少し寂しい気がします。


そこから墓地エリアに移動し、綱吉霊廟勅額門に行きます。
63歳没なんですね。本堂は綱吉によって建立され、造営奉行は柳沢吉保、資材調達は紀伊国屋と奈良屋。そうそうたるメンバーですね。
もともとここにあったお寺が湯島に移されて湯島聖堂になったそうです。
門は見れますが、墓地には入れないため墓石は見れません。


鶯谷駅を超えて日光街道を北東に進みます。

ぜひとも広重が描いた根岸にある御行の松を見たかった。
初代御行の松の根が土中から掘り起こされて展示されています。
初代は高さ13Mでしたが、今の松は3Mくらいでしょうか。
広重の頃の松とはかなり違う感じです。
地元の人が神社の水盤を直すために集まっています。
境内には御行の松の絵や記事が掲載されていて地域の人の手作り感を感じます。
神社は有名ではないので、地域の保全がなければ維持できないです。

そこから吉原に向かいます。
根岸に近い南西でなく北東の吉原大門からアプローチします。
日本堤を歩いて戸時代のお客の気分になってみたかったのです。
しかし日本堤は跡形もなく、4車線のありふれた車道になっていて当時の気分は味わえません。
交番の横をとおって、ありました、吉原大門とかかれた柱が。

興味が無ければ、防犯カメラがついている鉄柱にしかみえないでしょう。
大門から先は明らかに風俗街で、用事が無い人は足を踏み入れ難い雰囲気があります。
勇気を出して客引きを無視して中之町通りを突き切ります。
緊急事態宣言下のお昼の時間帯なので、通行人はまばらで客引きも暇そうです。
私のような初老のオジサンがキョロキョロしてスマホで写真を撮りながら歩いている様は知り合いに見られたくない姿です。

この辺りはもともと湿地帯で多くの池があり、明暦の大火後に埋め立てて吉原を移したそうで、残った池が吉原弁財天になっています。
ここには関東大震災の鎮魂像も設置してあります。廃れたとはいえ明治時代の花魁行列の写真が展示されていて興味深いです。
江戸時代はファッションの最新地で憧れの場所であり、1日に千両が使われる場所と言われたそうですが、昼間の吉原はくすんで古ぼけた、何となく後ろ暗い場所に感じます。
夜になれば汚い部分が隠れてネオンの輝く場所になるのでしょうか?

さて、大門まで戻り、日本堤どおりを経由して山谷掘に向かいます。
15分ほど歩く間に、3回くらいの浮浪者が酔って道端で寝ている姿に出会いました。

傍らに警察官がいて起きるように促しています。
調べてみると山谷はホームレスとアル中の町という記載もあるようです。
東京の人は知ってるんでしょうが、私は初めてしりました。

迷い歩いてやっと山谷掘を見つけました。
ここは広重の画の説明版や、吉原に通う猪牙船の模型が設置してあったりして気分を盛り上げます。
当時はこれに乗って吉原に通うのが大変贅沢とされていたそうです。
私は一瞬、ここに水路が残されていれば風流だなとは思いましたが、調べてみると汚濁と悪臭のため暗渠とされたとの事で、風流とは程遠いです。
外濠も夏になれば臭いですからね。
時代とともに風景が移り変わるのは必然であり、私のような暇人が散策がてら感傷にふけって考える事など浅はかだななどと考え直しながら、コンビニでかったお握りを猪牙船の模型に座って食べます。
見上げればスカイツリーが見えます。

100年後にはスカイツリーも歴史的建造物になるのでしょうが、そこに人間臭い物語を感じる事ができるのでしょうか。

公園沿いに今戸焼を模した猫が並べてあります。
浮世絵には今戸焼の窯の煙が描かれていたことを思い出しますが、今はすたれてしまい、一般には知られていないようですね。

そして待乳山につきました。
広重の「待乳山山谷掘夜景」に描かれた竹屋はこのあたりか?などと徘徊します。
待乳山に登ります。裏門から入るとケーブルカーがありますが、天狗坂が開放されていたので自分の足で登ります。

蔵前札差16名が奉納した銅造の宝篋印塔があります。
当時の札差の隆盛を現わしていますね。
作者の西村和泉守は江戸時代から大正時代にかけて11代続いた鋳物師だそうです。
鋳物師ってそんな続く職業なんですね。
傍らに道灌稲荷跡があります。
江戸時代の史跡をたずねると、1割くらいの頻度で道灌の名前がでてきます。
江戸を作ったのは家康ではなく道灌だという意見も頷けます。
待乳山は縁結びの神らしく、若い女性が多い。
なぜか参拝者が皆大根を手に持って上がってきます。
提灯には2本足の大根が交差する絵がかかれていてちょっとHな雰囲気です。
だから大根持ってるんですね。

待乳山浅草寺の別院。江戸時代は東都随一の眺望の名所といわれ、浮世絵や詩歌の題材となった。
池波正太郎の生家が近いらしく碑がある。
さて、吉原と同じく1日に千両が使われるといわれた歌舞伎座のあった猿若町が近いとの事で向かう。

「旧浅草猿若町」とかかれたそれらしき鉄柱があるだけ。
歌舞伎を連想させる店も建物もない。「吉原」「日本橋」と比較しても愛想がない。

何とか観光資源にできないものでしょうかね。

そこから浅草へ、寺の倉庫には三社祭りに備えて神輿が3体美しく整備されているが、
今年はコロナにより神輿は中止になったそうです。
改めて横からみた浅草寺の甍の量とその重厚感に驚きます。
どうなっているのか調べてみたら、何とチタン製で9万枚の瓦でできているそうです。
納得、本物の瓦だと地震が来たとき耐えれない気がします。
5重の塔もチタン製瓦のようです。
たしかに真実を知るとがっかりしますが、持続可能性の観点では上手く騙して頂けるならそれで良い。
どうせ脳内トリップを楽しんでいるのだから、フェイク建築物でも自分で脳内で本物に変換すれば良いと感じました。
寛永寺や山谷掘などの歴史的景観を復元するヒントがここにあるような気がします。