後書きにこの本の趣旨が良く纏まっているので紹介しよう。
通常は明治維新と言えば天保の改革、あるいはペリー来航の辺りから始めるらしい。(1840年代)。
しかし著者は、幕末における欧米、天皇、朝廷、民衆の考えや行動は17世紀末辺りから
始まっているとの考えで長いスパンで記載している。(田沼政治の終焉から)
私としては歴史は繋がっているので通史を学ばなければその時代の事件が発生したのかが理解できないと考えているので、長いスパンでの歴史書が好きだ。
また、私は金融機関に勤務しており、経済史にも興味があるので田沼時代の開発経済、財政再建、インフレ施策から始まる通史は興味深かった。
著者は政治過程だけでなく、社会史、経済史、思想史にも触れている。近世史の研究は分野ごとに深化しているのに、独立した分野として研究されており、学際的統合がなされていないと考えている。
武士だけでなく、地方の豪農、豪商、知識人、百姓レベルまで取り込んでいる。
約200ページのコンパクトな本にもかかわらず、通史的視点で書かれており繰り返し読んで勉強するには最適の1冊だと感じた。
百田氏のベストセラー「日本国紀」と、その批判本である浮世博史氏の「もう一つ上の日本史」を読み比べた事がある。その経験から、何十年も史料を読み込んで研究し、その積み重ねの上に更に研究を続ける歴史学者や研究者のエビデンスがある本で正確な歴史を知る事が必要だと私は考えている。
中学生の頃に父親のもっていた司馬遼太郎の本を読み、明治維新とは坂本龍馬や西郷隆盛などの有名人によって進められたロマンチックに考えていた。
しかし、社会人になり世の中の仕組みがわかってくるとともに、専門的な歴史書を読む事で理解がすすんだ。
明治維新とは幕府と地方有力大名、御三家、朝廷、公家、下級武士などの主張や利害、また欧米露によるグローバルな覇権主義や経済発展の当然の結果だろう。
横浜開港から数年後には福沢諭吉が貿易の利益について語っており、生糸の輸出や綿布の輸入の爆発的な激増はもはや鎖国に戻れないほど民衆の生業や生活に影響を与えており維新が民衆に根付いている事がわかる。
政治が鎖国に戻ろうとも、経済はもはや鎖国にはもどれない状態だったようだ。
さて本書の内容に入っていきましょう。
18世紀末は以下の年表のとおりです。少しくどいですが、通史として理解するには時系列のイベント表がわかり易い。
幕末期の政治経済状況としては。
①飢饉と一揆の頻発 ②幕府と諸大名の構造的赤字財政 ③欧米露の来航と通商要求の頻発となっていた。
これらにより幕府の権威が低下し、一方で天皇の権威が見直されつつあった。
大政論や水戸学とは何かは別途勉強する必要があると思います。江戸時代を通じて朝廷はお飾りのようなものであったのになぜ幕末に浮上したのか?そしてその根拠となる華夷思想や国体思想についても知っておかないと尊王攘夷の理屈が理解できないと思われる。万世一系の天皇を頂く日本こそが世界で最も尊い国であり、野蛮な欧米人を日本に入れて邪教を広めるべきではないという程度しか理解できていません。しかしこの思想は明治維新を経て第二次世界大戦までの日本人に大きな影響を与えた思想なので学ぶ価値はあると思います。
また百田氏を始めとした万世一系の天皇を頂く日本は素晴らしい国であるとの論調にもつながっており、現代にも流布される思想でしょう。
17世紀末の飢饉頻発についても別途勉強したいところです。飢饉の頻発は他の時代より多かったのか?世界的にはどうだったのか?寒冷期では?など疑問がわきます。
なぜ災害が多発したのかについても興味が湧きます。異常気象、寒冷期、火山の活動期などは、現代日本にとっても身近に感じられるリスクであり、災害飢饉疫病史を学ぶ事は現代の指針にもなる。
なぜ幕藩体制は構造的赤字だったのか、働かない武士階級が多すぎた?特権階級による無駄遣い?米経済から商品貨幣経済への変化?
欧米露の東アジア戦略はどうなっていたのか イギリスVSフランス、イギリスVSロシア。或いはロシア革命、ナポレオン戦争、オランダの没落などと当時の日本との関係を関連づける事でより深い理解が得られるだろう。
まずは幕府の財政赤字から。
18世紀半ばころには既に、幕府の財政赤字が課題であった。
そのため田沼時代が経済優先政策となった事は当然だった。
しかし、多様な業種団体に特権を与えて冥加金を上納させるやり方は、賄賂や不公平を生んだと思われている。
また、零細な特産品にまで税金をかけるやり方は地方の民衆の反発となった。
凶作による物価上昇に加えて、特産品などへの細々とした税金負担を加えた物価高が不満を招いた。
蝦夷地開発やロシア貿易により利益を目指したが失敗し、印旛沼干拓も失敗。
これらは昭和の無駄な公共事業に通じる。
本書の記載では、田沼政権は日本の隣国であるロシアが世界の大国である事を「発見」して「驚愕」し、蝦夷開発を行った。
江戸幕府にとっては異国船の脅威はロシアから始まっている。日露戦争に始まり大東亜戦争も仮想敵国はロシアであった事から、日本の脅威は中国ではなくロシアである。
度重なる飢饉や災害の不満のはけ口として田沼政治は民衆から悪政に見えたのではないだろうか。
田沼失脚後、定信は倹約を行ったが、倹約は消費を減少させ景気の悪化につながった。
財政は好転しても景気が悪化すれば民衆の支持はえられない。大奥のリストラは幕府内部の政敵を増やした。
さて、緊縮財政による需要減少はデフレとなり、赤字財政による景気維持は莫大な赤字を生むという現代の経済政策に繋がっている。
現代日本も同様に赤字を積み上げて財政支出を続けています。 幕末の「囲米」や「石川島訓練所」は現代の生活保護や職業訓練所と同じだろうか。こういった社会保障を継続しないと政権が倒れる事は歴史が証明している。
輸入インフレにより生活用品が高騰すれば江戸期の打ち壊しのように現代の民間企業が攻撃される事はあるだろうか?
民衆の不満が沸騰すると、打ち壊しや御所にお賽銭を投げ入れるなど非合理的で感情的な行動が起こる。
幕末の日本や、現代の海外で起こるなら現代の日本でも起こるだろう。
ネットを通じて不満が増幅されるだろう。自民党以外に政権を取れるのは?社会の分断から日本人のアイデンティティが低下する時代にはやはり右翼に近い維新の会か?
それとも自民党の中から例えば高市議員のような愛国主義者や右翼的政権誕生か。
非生産の武士を養う事ができなかった江戸時代、士族、華族を廃止したように、高齢者の年金を減らして自助に移行するしかないだろう。
長期の時間軸でみれば高齢化社会は持続不可能。
移民が高齢者を世話するか?島国で同質性が高い日本では多様な移民受入れは難しそうだが。
正社員という職業は無くなる。終身雇用も。これも持続不可能。見栄消費は無くなる。
江戸における打ち壊しの発生と無政府状態の発生は幕府の権威を低下させた。
米沢藩の領地返上や領地の一揆鎮撫、財政赤字などは藩の運営の難しさを創造させる。このような時代背景をもとに上杉鷹山や細川重賢が手本とされた。
このような藩の財政困窮や一揆への対応に窮した大名の存在が、明治に入ってからの廃藩置県へのスムーズな移行に繋がったのだという話は聞いた事がある。
東京に住めて、働かずに華族として俸給を貰えるならその方が気楽だと考える大名が多かったようだ。殿様も楽じゃないよという事だろう。
金融の円滑化や新田開発による石高増、特産品増産と運上税など、田沼政治は政治より経済を重視したが、印旛沼干拓の失敗(洪水)、蝦夷地開発とロシア貿易の失敗
ペリーが来航する50年前から日本には英米露の船舶が年間数隻来航している。
いきなりペリーが現れたわけではない。江戸の市民にとってはいきなりだろうが、幕府にとっては必然であった。
そのため著者の藤田氏は明治維新をペリーが来航する前の50年間を前期、ペリー後の15年を後期と定義している。
1786年 田沼失脚、 家治没、本居宣長「大政委任論」
1787年天明飢饉ピーク。東北各藩の農民の流動化。米沢藩は財政危機で領地を返上願い。
耕作放棄に対する復興、帰農令、商品作物禁止と主要作物奨励
これが上杉鷹山の誕生の背景。熊本藩宝暦の改革「徹底した節約、農村の把握による再興、領地内自給自足による富の藩外への流出防止。特産品政策による藩外からの稼ぎ。
善政を目指した藩校による教育
松平定信=本田忠一=細川重賢、藩の経済政策の相談
江戸市中で大規模な打ち壊し。奉行も打つ手なく数日無秩序化放置
松平定信の寛政の改革開始。全国で頻発した一揆対策、囲米など。
光格天皇、大嘗祭復活、御所千度参り、朝廷が幕府に窮民救済要請
1789年 寛政元年 棄損令、大名に囲米命令、猿屋町貸金会所設立
札差の監督。
1790年 聖堂学問所で朱子学以外を禁止(寛政異学禁)
オランダ貿易減額
旧里帰農奨励令発令
イギリス船 博多湾 民間、ラッコの皮
異国船取り扱い令
江戸町会所 7分積金創設
1792 林子平処罰
ロシア遣日使節ラスクマン根室に。定信はロシアが大国であることを認識。
日本の軍備では敵わない事を認識して紛争を回避する。
長崎入港の信牌をラスクマンに渡した。長崎での管理貿易を念頭に置いていた。
尊号一件、新嘗祭復活(定信や白石、本居宣長などは大政委任論で尊号を拒否、これが後に天皇が将軍を委任しているという根拠になり、大政奉還に繋がる)
この頃から賀茂真淵や本居によって「皇国」という言葉が使われ出し、皇国史観が始まった。
中華を否定し、日本が一番尊いという理由は、中国のように皇帝が変わる事なく、万世一系の天皇が統治する安定した国であることが万国一の根拠となった。
皇国と大政委任により「日本の国の形」として観念化された。→この皇国史観が後の大東亜戦争につながる。
さて、明治維新の原因はペリー来航の前から始まっている17世紀後半には英米露の商業船や軍艦が日本近海に現れており、幕府は150年ぶりに大名に海岸防備令をだした。
従来幕府は諸大名が軍備を拡充することを恐れて大型軍艦の建造を禁止していたが、これも許可した。
このためインフレが持続しており庶民の暮らしは厳しいものであった。
インフレの主たる要因が貨幣改鋳にある事はわかっていたが、改鋳しなければ幕府の財政が成立しないため継続された。
これって現在の日本政府がいつまでたってもプライマリーバランスできないのと同じ構造ですね。政権が長期化し、経済がひっ迫すると放漫財政になる構造。
江戸時代は武士という非生産階級の人数が多いのでそれを養う必要があるため幕府の支出が肥大化したのだろうか。
- 天保の飢饉、17世紀は飢饉や災害が多発していた、もしかしたら寒冷期だったのだろうか?
相次ぐ飢饉により地方の農民が都市に流入してきた。これって出稼ぎみたいなもの。今後地方の産業が衰退すれば若者は都市部に流入する。
今後の日本の状況を予測させる。結局食えなくなれば都市部に人が集まる事は避けられないんだね。
地方では耕作地の放棄が続き、米生産力が低下する悪循環となった。天保の改革では人返し令により農村に人を戻そうとしたが、
一旦江戸に流入した人は農村に戻らない。次に、農村から都市に人が流入するのを制限した。現代の民主主義では人はどこでも自由に住めるためこれはできない。y あ
現代においても地方創生とか言って省庁や民間企業の本社を地方に移そうとしているが、無駄だろう。いったん東京に流入したら地方には戻らない。
仕事があり、自由で刺激がある大都市に若者が集まるのは時代を問わない。
- 物価高騰は問屋組合の独占が原因とされ問屋が廃止され、民間の自由な売買に任せる事とした。(素人直売買勝手次第)
これって統制経済から自由経済への移行だね、神の見えざる手に任せれば物価が安くなると考えたのだね。
ところがこれが物流の混乱を招き、一層物価が上昇し、結局株仲間の復活を許可している。原因は貨幣改鋳だったのだから流通を改革しても解決しなかったらしい。
また、薩摩藩に許可した琉球通宝の改鋳により薩摩藩は明治維新の軍資金を準備している事は幕府にとっては皮肉な事だが、こういった事の積み重ねが維新に繋がっている。
なぜ薩摩藩が飛びぬけて強大な軍事力を持っていたのか勉強する価値はある。琉球を服属しており、密貿易で儲けて、海外情勢を得ていた事、長崎からのそう遠くない場所であり藩主が蘭学に熱中して反射炉などを創れたこと、郷中制度による兵力維持なども聞いた事があるが実際にはどうなのだろうか。
物資を運ぶための物流整備が目的となっていた。これは面白い話だ。
「外国艦船により浦賀水道が封鎖されれば100万都市の江戸は1週間で飢餓になり社会不安となる」と蘭学者千人同心が上書している。
1週間物流が止まったら飢餓になるって、幕末の江戸の物流量は大量だったのだろう。江戸も東京も物資が来なければ直ぐに危機になる。江戸湾封鎖はコロナ感染や東北地震などをイメージさせる。
西廻廻船や東廻船でさぞかし品川沖は賑わっていたのだろうし、市中に巡らされた水路や棒手振行商も賑わっていただろうと想像できる。
江戸は大名の町であり、火事が多く大工や木材商の町であり、年貢を扱う商人の町であって、1次産品を生産しない巨大都市という事だろう。
つまり自給自足できない都市。現代はトラック輸送となるため環境に悪いが、江戸時代は船輸送だから環境にやさしかった。SDGsの観点では水路の復活だろう。
しかし水路交通を復活すれば、温暖化が進めばベネチアのように海水逆流や汚水対策で大変な事になるのだろうか。
現在の日本で言えば、地震、台風、降雪、疫病、による都市封鎖のリスクがある。外国による流通封鎖はなさそうだが、中国が東アジア近海を封鎖する可能性はある。
- 江戸と大阪の治安維持や整備のため上知令を出したが、対象地域の大名や旗本住民の反対により中止となった。幕府は諸大名や民衆の反対を押し切って政策を行う武力や財政が
残っていなかったことを証明した。大名や庶民の間で幕府の権威が低下しつつあった。
権力の維持には「武力」と「経済力」が必要という事。
- 物価高の原因は庶民の贅沢だと考えて、質素倹約令がだされたが、これが逆に需要低下を招き不景気となった。
現代ではこのような需要減少策という誤った政策は先進国では行われないだろう。物価高に対しては供給力増強と金利引き上げだろう。
寄席の廃止、歌舞伎座の移転、質素倹約令、屋台の廃止→商品経済が進んだ江戸ではこれらに従事する業者が多く、失業増加になる。
江戸の庶民はその日暮なので日銭が入らないとすぐに生活困窮となり一揆騒乱に繋がる。
- 御所料改革。幕府直轄地の年貢の引上げ、これも中止となった。
このように天保の改革で目指した施策はことごとく廃止となり水野忠邦は罷免された。
こういった幕府の財政困窮や飢饉、商品経済の発達による商工業者や民衆の力の増大、商品経済に対応して庶民に読み書き算盤を学ぶ「教育爆発」が発生し、庶民からの明治維新へと繋がっていったそうです。
- 皇国史観の高まり
新井白石は、朝廷とは武家の都合により奉られており、武家に保護されるものと解釈した。それから1世紀後、松平定信は、
神国日本の主は天皇である。天皇は神々に護られ、国家と国民の興亡に関わる。武家は天皇の臣であると論じた。
賀茂真淵や本居宣長が「皇国」「皇朝」という言葉を多用し始める。
中国が中華でなく、万世一系の日本こそ中華である。王朝がしばしば交代する中国より、万世一系の天皇が持続する国家の安定性は世界に比類ない国体である。
この観念化により、皇国が屈辱を受けると凄まじい反発を引き起こす。皇国への狂信と激情が尊王攘夷のエネルギーとなり、後の大戦に繋がる。
1793 定信老中辞職
1796 イギリス人プロ―トン室蘭渡来、翌年も
幕府異国穏便取扱令
1803 アメリカ船長崎に、貿易要求拒絶
1804 レザノフ長崎に、貿易要求、鎖国は祖法として拒絶
ラスクマンの信牌が反故にされる。日露紛争へ。幕府はロシアに対して「祖法」
と説明してしまったため、国内においても鎖国は先祖代々の法になり、開国と言えなくなった。
1806 ロシア船フヴォストフが樺太攻撃
1807 幕府が全蝦夷地直轄、ロシア船樺太攻撃(文化の露寇事件)
幕府が露紛争を調停に報告、露船打ち払令
この頃の対外関係はロシア脅威。蝦夷地はニシン、いりこ、干し鮑、フカヒレなどの海産物の価値が高まっており、
国防上も幕府の直轄地として開発する必要があった。
イギリスが長崎でオランダ商館員拿捕、フェートン号事件、
長崎奉行自殺、佐賀藩主逼塞。オランダがフランス革命後ナポレオンに従属。イギリスはフランス(オランダ)と対立。
世界規模でイギリスはオランダの港を接収した。佐賀藩の次世代藩主はこれを転機として西洋武器導入を始めた。
また幕府は英国が野蛮で侵略的と判断、英露同盟を疑った。またオランダに雇われて長崎に出入りする米国船については、米国が独立
したことをしらなかったため、英国船ではないかと疑っていた。(実際フェートン号はオランダ国旗で偽装していたため)
千島測量中のゴロヴニンを2年間捕縛。ロシアはフランスナポレオンとの戦争に忙しく、調停した。
これによりロシアは40年間日本に来ない。
1813 イギリスジャワ副総督のラッフルズが長崎に派遣、オランダ商館接収失敗
1817 光格天皇譲位。イギリス船浦賀に来航。水野忠成が老中就任、益金目当ての貨幣改鋳へ。
1819 文政の貨幣改鋳
1824 イギリス捕鯨船員水戸藩に拘束、この頃より各地に外来船。
1825 幕府の異国打ち払い令
1828 シーボルト事件
1833 関東、奥羽で飢餓、各地で打ち壊し、
1837 翌年天保の飢餓ピーク
大塩平八郎の乱、家慶に譲位、
1838 佐渡異国一揆 斉昭「内憂外患意見書」高野長英「夢物語」渡辺崋山「慎機論」
1839 蛮社の獄
1840 アヘン戦争開始
高島秋帆、徳丸原で砲術演習、天保の改革開始。砲術演習は老中を招いて行われ、1週間後に天保の改革が発出された。
つまり、天保の改革の目的は幕府の財政再建のための節約令であると同時に、外国対応軍備増強改革でもあった。
奢侈禁止令、芝居小屋廃止、株仲間解散
1842 オランダ商館長、イギリス軍艦の来日計画情報
異国船うち払い令廃止、薪水給与令、諸大名に海岸防備令
さて本書は全5章からなるが、ここまでで3章の途中になる。このあとはいよいよ尊王攘夷から始まる政治の季節となり、多くの本が存在するため読書感想は割愛する。
著者の藤田 覚さんは東大名誉教授であるが、史料編纂所教授でもあったため史料に基づいたエビデンスのある著作となっている。この内容を新書200ページに収めるのは厳しい。
もう少し内容を絞るか、ページを多くすると私のような庶民でも理解がすすむ。
既に3回ほど読み直したが、手元に置いて勉強したい本である。