teinenchallenge’s blog

普通のサラリーマンが充実した定年後を目指します

北斎展

富嶽三十六景 神奈川沖裏

 

 

サントリー美術館北斎展を見る。

 

コロナ禍で予約が不要な展覧会を探して六本木に向かう。

版画は主に大英博物館から、肉筆画は主に国内から集めたようだ。

入口では有名な凱風快晴の赤富士に迎えられる。                                                                 この版画は 4色のみで刷られ、究極の省略美と言われる。

美術展で許可されている神奈川沖浪裏の写真では、プルシアンブルーの美しさととカギ手の波の独自性が記憶に残る。

                                                              

何千枚も刷られたとはいえ、約200年前の版画が現代に残っていることに感謝したい。

北斎は7歳から絵を描き始め、逝去する90歳の直前まで絵を描き続けている。

70歳まではロクな絵を描かなかったが、70歳を過ぎて上手くなり、80歳を過ぎてから年々上手くなっている、今後も上手くなり続けると思うと北斎自身が書き残している。

爆発的に売れた富嶽三十六景を出版したのが75歳で遅咲きの浮世絵師と思うかもしれないが、60歳の時には浮世絵番付で1位になるなど既に人気浮世絵師であった。

70歳で番付は別格になっているが、孫の借金を肩代わりすることになりお金が必要になったり、中風(軽い脳卒中)になって自家製柚子薬で治したり大変な時期の後に、

富嶽三十六景を出版しているのだから人生はあきらめない事が大切だ。

88歳で弟子のために絵手本を描いているが、これが沢山の動植物、景色、日用品とともに解説もびっしりかかれていてその技術、集中力、体力に驚く。

また88歳で鴨の掛け軸(流水に鴨図)を描いているが、鴨の羽毛の色や形が繊細で、水に潜っている鴨を透けて描く技法は独特で超人的だ。

 56歳の自分が、上手下手は気にしないから描いてみろと言われても無理。                                                                                                                                          

人物、風景、花鳥、お化け、詩や歌の挿絵などあらゆる対象を多様な技法で描いている。

大英帝国のキュレーターや日本画研究家から一人の画家が描いたとは思えない多彩な作品群であり、北斎研究は1人では無理だと書かれていたが。

80年間向上心を持って絵を描き続ける事が出来た職業画家は世界で何人いるかを考えれば、世界屈指の技能を持つに至るも不思議はない。

 

尾州不二見原では大樽の丸の中に富士の三角が入る構図は架空のものだろう。

神奈川沖浪裏でも波に囲まれた半円のなかに富士を治める構図は実際に見る事が難しいだろう。

遠江山中では画面を斜めに横切る木材は脇役がこんなにど真ん中に置かれる不自然さが印象に残る。

北斎の風景画を見ていると、画の構図を重視するため非現実な構図がとられ、デフォルメが行われる一方で、描かれる風景は画紙の大きさをはみ出て、一般人が描く風景のように景色がこじんまりまとまって画紙に収まるものとは異なる構図となっているのが印象的だ。これはあくまで個人的感想なので解説ではありません。

 

最晩年に出版された百人一首を題材にした「うばがえとき」は多色刷りが過ぎて採算に合わず、捻りが利きすぎて見ている人が理解できないという理由で余り出版されなかったそうだが、自分の余命を考えて渾身の力作が、商業主義とは相いれないという事は芸術にはよくある話だろう。

当時版画は掛けそば2杯程度の価格だったので凝った絵が採算に合わないのは理解できる。

そうではあってもこのように色遣いが美しく、200年を超えても芸術品として残った結果を見れば本望だろう。

北斎は生涯で90回引っ越ししているが、平均1年に1回引っ越ししていればもはや引っ越しではなく住所不定の浮浪者だろう。

但し当時の江戸庶民は引っ越しが多かったそうだ。北斎自身は火災にあったのは生涯で一度だけだそうだが、当時の江戸は人口が増加し続けていて、火事や地震など災害も多かったので江戸の住民は引っ越しが多かったのだろう。

江戸の半分は大名屋敷であり、残る半分は商人と職人だったのだろう。農地に縛られる農民は中心部にはおらず、独身の男性ばかりの都市で荷物もなければ引っ越しの自由度やコストは安いだろう。

北斎は30回改号したそうだ。人生60年なので60歳で新たな人生が始まるとして60歳で為一に改号している。

晩年は画狂老人、卍としている。

百物語は現代に5枚しか現存していないようだ。こはだ小平二は一度見たら忘れない奇妙な絵だ。私が若い頃見たときには、なぜあんな綺麗な富嶽の絵を描く絵師がこんな気持ちの悪い化け物の絵を描くのか不思議だったが、北斎は「人物を書くには骨格を知らなければ真実とは成り得ない。」とし接骨院に弟子入りして、接骨術や筋骨の解剖学をきわめ、やっと人体を描く本当の方法がわかったと語った。

弟子の証言では、「先生に入門して長く画を書いているが、まだ自在に描けない…」と嘆いていると、娘阿栄が笑って「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。何事も自分が及ばないと自棄になる時が上達する時なんだ。」と言うと、そばで聞いていた北斎は「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという。

北斎は晩年になっても画法の研究を怠らず続けていた逸話だ。

北斎は偏食で、自分で料理はせず、生魚は調理が面倒で貰ったら人にあげる。好物は大福もち。3食外食や出前。ゴミも捨てず、運動もせず、秋から春は炬燵に入ったまま絵を描く。

それで90歳近くまで生きたのだから基本的にストレスが少なく、持って生まれた体が丈夫だったのかな。

多くのサラリーマンは22歳から65歳まで、お金のために、組織の貢献のために意に沿わない仕事を40年以上続ける。

そして定年後は生き甲斐を失い、うつ病になったりして老け込む。

一方、北斎は7歳から絵を追求し続け、70歳を過ぎて大ベストセラーを描く事ができ、90歳で死ぬまで向上心を持って素晴らしい絵を描き続けた。

意に沿わない40年と自己向上心の40年の差が65歳以降の生きがいや幸せに影響するのは当たり前。

自分は既に30年以上組織のために、意に沿わない仕事を続けてきた。残されているであろう約20年を再雇用で継続するのか、違う生き方を目指すのか、答えは出ていない。