歴史では時々革命がおこる。
世の中の実態が大きく変化したにも関わらず社会システムが変わらない結果、ひずみが発生する。
ひずみを直す大改革に取り組まなければ国は亡びると論じる。
現代の資本主義や日本の停滞は社会システムを大改革する必要性を示していないだろうか。
現代の世界では正常に議会制民主主義が機能している国より、独裁国家の方が多いという。
議会制民主主義国家の方が経済発展をとげているため、正しいシステムであると思われている。
また、多数の人間の幸せの最大公約数を実現するためには、多数の人間の生命の安全が保障され、自由と平等が約束されているべきと思われている。
しかし、ロシアや中国を見ると、民衆は必ずしも自由や平等を求めておらず、権威ある独裁者が社会を安定させ、外国からの侵略を防ぎ、古い秩序や価値観を維持してくれる事を望んでいる民衆も多いのではないかと感じる。
著者はフランス革命について、国家の財政破綻や社会システムが現状に合っていない事から革命はいずれ起こるべき事だと論じている。
革命を形成する3名の重要人物として、ルイ16世、ロベスピエール、ナポレオンを上げている。
絶対王政について。
絶対王政はヒトラーのような独裁とは違う。約束事として、国王は民の幸せを目的に統治する。キリスト教の教えに従う。フランス王については重要事項は3部会で決める。国王が出す法令は高等法院に登録されなければ発効しない。貴族は本来は国のために自費で一族を連れて戦う人だったが、フランスでは常備軍が整備されたため貴族の役割は変質したが、免税など特権は維持されていた。
また、平民が貴族身分をお金で買う事が出来るようになり、平服貴族が発生した。
啓蒙思想は100年をかけて徐々に醸成されてきた。
デカルトの流れで物事を科学的に考えようとする事。そうすると、宗教や権威や伝統に対して否定的に捉える事になる。
第三身分の上位層であるブルジョアは裕福となり知的、政治的に成熟して貴族に対抗する思想を培っていった。
貴族は領地や年貢によって身分を維持した。ブルジョアは自由な商品経済取引に支えられていた。
・ルイ16世について
19歳で即位し、大臣任せにせず改革を行おうとした。一人の愛人も持たなかった。具体的には以下の通り
カトリック教徒以外にも戸籍上の身分を認め、信仰の自由を進めようとした。
拷問を禁止(ギロチンは死刑囚をできるだけ苦しめないための人道的観点で考案された)
海軍改革を行った。
人口としては1%の第一と第二身分は国土の35%を所有しており、ここに課税しようとする財政改革は合理的であった。
つまりフランス革命の発端はルイ16世の税制改革であり、それに反対する貴族が3部会を開催して決定権を国王から
奪おうとした事で始まった。
革命の初期は立憲君主制を目指しており、王政を廃止しようと考えた人は誰もいなかった。
民衆は専制政治と国王は別ものであり、当初は特権階級を退治する事が目的であった。
民衆は国王は空気のように存在するのが当たり前で、改革をリードする事を期待していた。
これは幕末の日本も同じで、当初江戸幕府は国力を上げるために外国と限定的に開国しようとし、フランスから軍備を導入した。
また、当初は徳川幕府だけの政治指導体制から、諸大名が参加した合議制指導体制を目指したが、明治維新後は
版籍奉還や徴兵制により大名や武士身分が廃止されるに至った事を思い起こさせます。
さて、ここから本題の革命の志士に入る。最初はラファイエット。
バスチーユ襲撃の翌日、国民衛兵司令官に推挙された。当時32歳で見栄えのする人物で当時民衆に人気があったそうだ。
ラファイエットはフランス革命が始まる前から英雄として有名であった。
ラファイエット家は名門で裕福な貴族。一族からは有名な軍人が何名も出ている。
ラファイエットも軍学校に通った後、軍隊に入って少尉から軍歴を始めた。
妻も名門貴族出身であり、義父はルイ16世の親しい友人であったためベルサイユ宮殿に出入りしていた。
ラファイエットは野心家で、軍隊の単調な生活や、宮廷の軽薄な生活を嫌っていた。
フランスに支援を求めてやってきたアメリカ人とパリで知り合い感動したラファイエットは軍隊をやめてアメリカに渡ろうとした。
驚いた家族は政府に願い出て「封印状」を発行してもらい、バスチーユに収監させようとした。
ラファイエットは裕福だったので王令に逆らって自分で船を雇って仲間とアメリカに渡った。
フランスの名家貴族が参加する事はアメリカにとって宣伝効果もあるため歓迎され、総司令官のワシントンの知己を得た。
ラファイエットはいくつもの戦闘に参加して有名となり名誉の負傷も負ったそうだ。
1年後にフランス政府が正式にアメリカ軍を承認し軍事協定が締結された。
有名になったラファイエットはベルサイユ宮殿のパーティーでアントワネットからダンスの相手に指名され、パリのオペラ座で観劇すると民衆から拍手された。
プロシアのフリードリヒ大王やロシアのエカテリーナ2世から英雄として招かれた。
ラファイエットは思想家ではなく軍人なので緻密な理論がある訳ではなかった。カッコよさや話題になる聴衆の受けを狙った発言が多く、演説の時にはサクラで盛り上げさせた。
ここまでの経歴を見れば、著名な軍人であったラファイエットが国民衛兵司令官に推薦されたことが理解できるし、パリを訪れたルイ16世を市庁舎に歓迎した事も何となく理解できる。
ラファイエットは立憲君主制を目指しており、王政打倒に先鋭化する革命を抑止しようとして国民衛兵に暴徒鎮圧を命じるなどしたため革命政府から逮捕状が出された。
ラファイエット自身は王家のために働いてきたし、アントワネットの母国なので寛大にされると思いオーストリアに亡命したが、オーストリアでは革命分子として5年間投獄された。
恐怖政治のさなかに妻は投獄され、妻の家族が処刑された。その後、ナポレオン時代にオーストリアから解放されたが不遇の時代を過ごした。
途中でアメリカ旅行をした時には建国の英雄の一人としてアメリカ中で歓迎された。
7月革命でブルボン家が追放されたときに革命初期と同じような状況となり73歳にしてパリ国民衛兵司令官に就任した。
フランス共和国最初の大統領となる可能性もあったそうだ。
ロベスピエールやダントン、マラーなど革命初期の志士が処刑された事に比べれば国民に敬愛された最後は幸せだったと書かれている。
ラファイエットの墓には今でもアメリカが星条旗を毎年立て替えていて200年以上続けているそうです。
やはり人物史からみる歴史は面白い物語になります。