家宣のミイラが存在していた。
長谷 章久さんの「江戸・東京歴史物語」を片手に芝増上寺を訪ねた。
昭和33年に家宣の宝塔移転時に発掘したところ、家宣のミイラが見つかったとの事。
・48歳で将軍に即位し50歳で死亡
・父親の綱重の遺伝で猫背
・細長い顔、で細い体。家宣以降の将軍はほぼすべて面長で、柔らかい食物しか摂らなかったため全ての歯のエナメル質が残っているとの事です。
最後の将軍慶喜は写真が残っているので見るとやはり面長です。
将軍に限らず、皇族や大名一族もやはり面長で顎が小さいとの事。
女性の遺伝が強いとすれば、当時は面長の女性が高貴であると考えられていたかも知れません。
いずれにせよ、庶民とは大きく異なる血縁関係や食事、生活様式だったようです。
死亡から250年近くたって東京で将軍のミイラが残っていたなんて初めてしりました。
当時は将軍にお目見えすることが大名の名誉であり、簡単にはできなかったようです。
ましてや面を上げて将軍の顔を直接見る事さえ勝手にはできなかったので、ミイラの調査とはいえ凄いことだと思います。
よく時代劇で「おもてを上げい!」とか言ってますよね、それから将軍は公の場では権威を高めるためあまり声も出さなかったようでまさに殿上人だったんですね。
家宣は僅か2年しか在任しておらず、学校で習った時にはマイナーでしたが「生類憐みの令の廃止」「柳沢吉保や萩原重秀を左遷」「新井白石の登用」など改革を行っています。
この本は2003年発行で地理的な記載が古くなっている部分があります。
左遷された柳沢は、私の愛する六義園を作っているので、世間の評判は別にしてやはり何か形に残るものがあると後世の記憶に残りやすいですね。