teinenchallenge’s blog

普通のサラリーマンが充実した定年後を目指します

ブルターニュ展

 

国立西洋美術館の「憧憬の地ブルターニュ」展がGWのためチケットが取れず、ひとまずSOMPO美術館の「ブルターニュの光と風」展に行きました。

美術に疎いためなぜブルターニュがテーマになるのか調べようと思いましたが、近所の区立図書館でブルターニュと検索しても1冊もヒットしません。

ネット検索しても日本人には馴染みのない場所で観光情報もほとんどヒットしません。

1500年代にフランスに併合されるまで英国から渡ったケルト人のブルターニュ公国として独自の文化を持っていた。

フランス革命の頃まではパリから遠く、大西洋に突き出た半島で野蛮で原始的で土着宗教信仰の残るフランスの異郷の地だったそうだ。

海に突き出た断崖絶壁、花崗岩が突き出た風景、独自の服装や祭祀をテーマにしようと多くの芸術家が集まり、特にポン=タヴァン派が知られたそうだ。

有名な画家としてゴーギャンが挙がっていたのでゴーギャンを調べる事にした。

ここからは木村泰司さんの「ゴッホとゴーキャン」から9割以上コピペしています。

ゴーギャンは1848年革命さなかのパリで生まれる。

反革命派の新聞記者であった父の立場が悪化したため、妻の親戚を頼って一家でペルーへ向かう途中病死する。

7歳の時一家はパリに戻る。

17歳から23歳まで船員として世界の海を旅する。ここまでの多感な時期で異国を流浪する生活を好むようになったのだろう。

23歳から株式仲買人として成功し年収3万フラン、絵画取引でも3万フランを稼いでいた。結婚、5人の子供に恵まれる。

休日は画を描き、サロンにも入賞し、ピサロドガなど印象派の絵を収集した。

家庭生活や経済面ではここが絶頂期。

34歳の時金融恐慌が発生し、株式仲買人を辞めて画家として生きる事を決めるが、ここからは家庭も経済面も悪化する一方になる。

この頃妻が3人の子供を連れて母国のデンマークへ帰国。残された2人の子供を抱えパリで画家として生活する事は難しく、ゴーギャンデンマーク印象派を啓蒙するという大義名分のもと、布の販売代理人となる。

しかし、デンマーク語が話せず販売に失敗。印象派の展覧会も失敗。傲慢で不愛想な性格から妻の親戚に拒絶される。

妻は経済的に自立しており子育てに対する方針や価値観の相違からゴーギャンとの関係が悪化、ゴーギャンは失意のうちに病弱な息子一人を連れてパリに戻る。

パリでは日当5フラン(4~5千円)のポスター貼りで困窮し、床で眠る事もあった。数年前の年収6万フラン(現在の価値で約5千万円)つまり約30/1の年収。

生活費の安いブルターニュに移り、カリスマ性と豪快な性格からそこで若手画家のリーダー的存在になる。

ここで生来の傲慢な性格が助長され、人を見下す話し方が身についてしまう。

その後、カリブ海に半年ほど滞在し、そこで明るい色使いや原始的、野性的モチーフを対象とした絵を創作するが、健康を害し、破産した事で国費で帰国する。

パリから再度ブルターニュに移り、「総合主義」を確立した。

ここでやっと美術展のテーマであるブルターニュが出てきます。

「フランス北西部、大西洋に突き出た半島を核とするブルターニュ地方は、古来より特異な歴史文化を紡いできました。断崖の連なる海岸や岩が覆う荒野、内陸部の深い森をはじめとする豊かな自然、各地に残された古代の巨石遺構や中近世のキリスト教モニュメント、そしてケルト系言語たる「ブルトン語」を話す人々の素朴で信心深い生活様式 − このフランスの内なる「異郷」は、ロマン主義の時代を迎えると芸術家たちの注目を集め、美術の領域でも新たな画題を求める者たちがブルターニュを目指しました。」ブルターニュ展より抜粋。

さて、話をゴーギャンに戻します。

ゴーギャンブルターニュで総合主義を確立し、ポン=タヴァン派のリーダーとして境地を開きます。

パリに戻ると一部の画家仲間からは評価を得てゆくが、依然として作品は酷評され、サロンからは評価されず絵が売れない。

折角なので総合主義について説明します。

印象派は現実のあるがままを画家自身の目に映った印象(主観)として表現している。

一方、平面的、装飾的、太い輪郭、単純なフォルムにより見る人に感情を発生させる事を目指したのが総合主義。

総合主義の目的は他者に何かの感情を発生させる事なので、実際に画家の目に写っていないモチーフも描かれている。

「説教の後の幻影」では現実の群衆の中に、聖書の「天使とヤコブの闘い」を挿入する事で、原始的人間がキリスト教に触れて幻想を見るという人間の内面を描いている。

見た目の印象をあるがまま描く印象派に対して、自分の内面の感情を表現する事で印象派から脱皮したゴッポ。

それに加えてゴーギャンは知性を融合させたため見る物に一定の知的プロセスを求めることとなる。

これが原因でゴッホの絵の方が「何となくわかる気がして」人気が高いそうだ。

確かに文明批判、原始的なものへの憧憬といったメッセージを絵から感じる。

ゴーギャンブルターニュと同じ理由で南洋に対する関心も高めてゆきます。

明るく開放的な原色で描かれるタヒチの人物や植物と、灰色で描かれる波、原野、農家のどこに共通点があるのかと

思っていましたが、原始的で素朴な異郷の地が共通点だったのですね。

こういった時代背景、宗教、土地や文化、画家の生涯に対する理解があれば、芸術的感性がなくとも絵画を楽しむことができます。

43歳になったゴーギャンは南洋への憧憬からタヒチへ向かう。

当時のタヒチはフランスの植民地。フランスが持ち込んだアルコールや梅毒により原住民はアル中や梅毒患者が蔓延していた。

現地ではフランス人が権力をふるい、現地人との差別やキリスト教への改宗が進み、ゴーギャンがイメージしていた素朴で原始宗教的、野性的楽園ではなかった。

自分が受け入れられなかったヨーロッパ社会や近代文明を堕落と見なし、原始的なタヒチを美化する事で現実逃避しようとしたゴーギャンの目指すものはなかった。

2年間のタヒチ生活で書き溜めた画を持って、画家として認められる事に期待しつつフランスに戻り、開催した個展は大失敗。

原始趣味とエキゾチックはあまりにも刺激的過ぎてヨーロッパで理解されなかった。

ゴーギャンが評価される現代に生きる私でさえ、幼い頃最初に見たゴーギャンの絵に、得体のしれぬ嫌悪を感じたのだから一般人から見れば理解され難いのはわかる。

 

47歳でブルターニュに向かう、酔って喧嘩で右足首を砕かれ、これが障害となる。

その後、喧嘩の裁判でも不利な判決となり治療費や賠償金が受け取れず、自分の作品の所有権の裁判でも負けてしまう。

相変わらず作品は評価されず、家族関係も冷え切ったまま。

プライドの高いゴーギャンは重なる禍の原因を自分でなく文明社会のせいにしまたもや現実逃避としてタヒチを目指した。

病院で治療費が払えない。植民地政府から受け入れられず、批判を繰り返し、高いプライドや自分が中心でないと気が済まない性格から仕事も続かない。

娼婦からうつされた梅毒、酔って喧嘩で骨折し不自由となった足首、過去の南洋生活で肝炎に罹患、結膜炎で視力が悪化。

経済的にも好転の兆しはなく、現地で小屋を建てた時の借金、子供の死、植民地政府との対立による孤立。

フランスに戻ろうと友人に借金を訴えたが、ヨーロッパではゴーギャンは既に伝説化され、歴史の中の人物であり、南洋のエキゾチックな画家という神話を崩さないため帰国は諦めるよう説得された。

自ら創ったイメージのためそれに囚われてヨーロッパに戻る事ができなくなった。

 

「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」を描いて山に登りヒ素で服毒自殺を試みるが失敗。

その後、安いながらもフランスに送った絵が売れ、継続的に生活費を得る事となったが、生来の喧嘩好きと批判的性格から植民地政府を口汚く批判し、納税や通学の拒否を論じる新聞記事を投稿し続けた事で疎まれ、有罪判決を受ける。

罰金を払う余裕も、服役するほどの健康もなく、最後は画を描く体力も無くなった事で絶望しモルヒネの大量服薬と思われる原因で55歳の生涯を閉じたのだ。

経済的、家庭的には30代でピークを迎え、その後は悪化し続けて最後は孤独と貧困の中で自殺した。

生存中は画家として高く評価されることはなかったが、総合主義を確立し、一部の若手画家から信仰されるなど高いプライドを満足させる波が何度か訪れた。

タヒチでは10代の現地妻3人に子供を産ませ、パリでも10代のジャワ人を妻にするなど処女趣味をもち、友人や親族からの経済的支援に寄生していた。

喧嘩早く、他人に批判的で自尊心が高く、評価されない原因は周囲が理解できないためだとする現実逃避の中で生きた。

 

私の中では西洋絵画を鑑賞する目的は美しいものや、超絶技法を見る事ではない。

絵画鑑賞に伴い当時の時代背景、文化を知り、それが現在社会にどのような影響を与えているのか知る事。

そして画家の人生と自分の人生を重ね合わせ、人間の幸福とは何か?自分はどう生きるべきかについてのヒントを得る事が目的だ。

比較するのも恥ずかしいが、私は大学時代にバイクにテントを積んで九州を2週間ほど旅行し、ヨーロッパを貧乏旅行し、沢木耕太郎の「深夜超特急」に胸躍らせた。

生活のため必要に迫られ、バブル全盛期に証券会社に入社し、32歳の時、バブル崩壊で勤務先が倒産し転職した。

ゴーギャンに比べればさざ波のようだが何となく気持ちはわかる気がする。

その一方で、年収5千万稼いだ事も破産した事もなく、海外で生活した事も愛人を囲った事もない。

平凡でありふれたサラリーマン生活を続けている。

人生は終わるときの状況で幸福度が大きく変わると言われていて、私の人生はまだ終わっていない

死期を悟るまでの残りの人生でできるだけ幸福を感じるようにするかが今回の展覧会から得た学びでした。