teinenchallenge’s blog

普通のサラリーマンが充実した定年後を目指します

文明としての江戸システム②

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湯舟沢村宗門人別改帳

「文明としての江戸システム」鬼頭 宏 先生 講談社

 

この本の読書感想文は難しいです、気軽な読書感想ブログとしては荷が重く、本の内容と齟齬があったらご容赦ください。

できれば本を読んでいただきたいです。

データや表、グラフを言葉で表現するのが難しい。

内容が正確なので、デフォルメしにくい。

江戸時代270年の日本全体の分析なので範囲が広くて短文で説明できない。

 

 【2章】より

日本は「宗門人別改め帳」「過去帳」等により世界で最高の歴史人口史料が揃っているそうです。

私の実家の仏壇にも過去帳があるのをついこの前発見しましたが、確かに家系の人数や死亡年齢を分析できます。

近世でこんなデータが揃っている国はないそうです。

だから江戸時代の日本の人口動態は比較的正確に把握できるそうです。

後で記載しますが、江戸前期に日本の人口は約2倍になったそうで、世界の歴史で見ても、産業革命を除けば歴史的に急増と言えるそうです。

なぜこの時期人口が増えたのかが分析されていますが、農業の生産性が上昇したそうです。

 

生産性が上がった理由としては市場経済化により余剰に作った農産物を販売する事が出来るようになった事があるそうです。

江戸は武士の町なので、江戸の生活を支えるために全国から米を始めとした物資を江戸に出荷する必要があり、それが流通と交換による市場経済を発達させたようです。

例えば江戸人は大酒飲みですが、樽廻船により近畿から清酒を出荷したため近畿では酒造量が増加したと思われます。

農地で考えれば、頑張って収穫が増えれば販売して現金を得る事ができるのでモチベーションアップになり、土地を開墾し収穫量を増やすために品種改良や肥料を工夫するのですね。

日本のように水稲裁判で棚田や矮小地での農業は労働集約的であるため、狭い農地に手間をかけて効率化することがベストのようです。

私のイメージでは小規模農家より大規規模農家の方が生産性は高くなると思っていましたが、現代のようにトラクターやヘリの農薬散布とかできなくて全て人力でやるなら機械化できないってことですものね。

それから、昔の大規模農業は奴隷を雇って荘園を経営していたのですが、使用人である奴隷は頑張って収穫量が上がっても自分の収入は増えないので自ら工夫して真面目に働かない。

小規模の家族経営農家の方が工夫するから一単位当たりの土地からの収穫が多くなるそうです。

大名も年貢を増やすためには領地の石高を上げる必要があるため、家族経営の農家を増やしたそうです。

奴隷や部屋住みの次男は新田開発した農地に植民する。

地域差が大きいそうですが、江戸時代の女性は平均5人の子供を産んだそうです。一見多い印象ですが、西ヨーロッパの前近代の女性よりは少ないとの事。

離婚率は大まかに2割程度だったそうです。

離婚と再婚も多かったようです。これは、嫁とりは労働調達手段であり、家を存続させる出産が優先課題であるために働けないとか子供が生まれない嫁は離縁された。「3年以内に子供が出来なければ離婚。」との諺もあるようです。

女性は労働と出産機能しか求められていないってこと?愛はないのか?

生活するのに精いっぱいだったんでしょうね。

狭い家に姑さんと5人くらいの子供がいるわけですしね。

著者が調べた村では結婚している夫婦の男性の3割、女性の4割は再婚だったとの事。

再婚が可能ならば離婚もしやすかったでしょう。

 

・下層農民の娘  →  10代から村外に奉公に出ており、村に戻ってから結婚する。

            栄養状態も悪く、間引きもされるため家族が増えない。

・上層農民の娘  →  奉公はせず、親元で生活しており早婚。栄養状態が良く早婚    

            のため出産可能期間が長い。

こんな理由で裕福な農家ほど子供の数が多く、家を存続させる確率が高いそうです。

江戸時代の農村では住居費や教育費の負担が少なく、「食料」が獲得できるかどうかが子供の数と比例するんですね。

ライフサイクルの表が掲載されていて面白いです。

江戸時代  26歳結婚、61歳末子成人、62歳夫死亡

昭和30年代 28歳結婚、52歳末子学卒、77歳死亡

つまり江戸時代は61歳で息子が成人して62歳でが死ぬ。

父親は死ぬ間際まで子供を養育しなければならず、子供が独立して余生を楽しむという期間が無いという事だったようです。

働き詰めの人生です。定年後は海外旅行とか、悠々自適とかはない。でも、老後の生活資金や介護を心配する必要はなかったでしょうね。老後が無いのですから。

仮に60歳を超えて生きら、江戸時代は還暦で家督を相続するのが普通であり、家の運営や財産の処分権は子供に移ってしまいます。

長生きしても結局お金が無くて老後を楽しむといった感じではないし、寒村にいくと姥捨て山の風習にあるとおり口減らしの対象になる。

 

【三章】

江戸開府の1600年頃の日本の人口は1600万人程度

吉宗治世の1720年頃の同上 3100万人程度

1840年頃の同上  3100万人程度

 

つまり江戸時代前期に激増し、中期以降は横ばいとなっている。

江戸前期の人口増加率 0.8%

明治維新 1%。明治維新は石炭燃料への変換や海外の技術導入など革命的に技術が進歩し生産性が劇的に向上しました。 

ではなぜ鎖国して海外からの技術導入がない江戸前期に人口が増えたのか?

戦国時代の終で平和になり安心して農業ができるようになった。

戦争に使っていたエネルギーを開墾、溜池、堤防など公共投資に向けられた。

江戸という巨大マーケット、消費地の出現により市場経済化された。

地方の農村が利潤動機に基づいてより多く生産する努力をした。

繰り返しですが、農業の生産性向上により家族経営の小規模農家が増えたそうです。

信濃国における世帯所属人数の推移

1670年には4つの地区で12人~7人が1世帯に所属していた。

1850年代には4つの地区すべてが4人台になった。

水稲農耕は小規模家族経営が一番生産性が高い。

農奴は結婚しないが、農奴が減少したため逆にいうと結婚する人が増えるという事。

世帯人数が多いほど農奴が多く、4名世帯に農奴はいない。

市場化が進んでいた畿内農家は早くから4人家族。九州や信濃は大規模家族が多かったが、市場化に伴い零細化して行った。

17世紀を通じて一人当たりの農地面積は半分になった。

 

江戸時代諏訪郡の前期と後期の女性の出生率は8人から4人台へ減少した。

当時避妊技術は無かったので、堕胎と子殺しが行われたと推察されている。

通常、男女比率は半々になるが、貧しい地域、貧しい世帯ほど男児の比率が高く。

その原因は家を継ぎ労働力になる男児を残して女児は間引いたと分析されている。

 

実際に江戸末期には間引き防止のパンフレットが配られていた。

当時の為政者にとって出産率低下は人口減少となり農村荒廃、年貢減少になると考えられていた。

 子殺しを防ぐため、天領では小児養育料頂戴人 懐胎御届書を作成して養育費を支給していたそうです。

米価低迷に悩んだ吉宗時代には人口減少を疑って人口調査を始めた。人口が増えるように子殺しを禁止したい。→類憐みの令により子殺しも防げるのではないかと考えたのではないでしょうか。

  

江戸後期、江戸の人口のうち、江戸以外の出身者は約2割程度。

北関東出身者は浅草、本所、深川エリアに集中、日本橋、京橋、赤坂は近畿圏出身者が住む。

出身地への街道沿いに住む。あとは越後屋駿河屋など大店の奉公人が日本橋に住む。

四谷には紀尾井藩の屋敷があったため、紀州出身地が多く住んでおり、その大名屋敷に出入りする商人や奉公人も紀尾井出身者。

 

 江戸は参勤交代で単身赴任中の武士の町であり、かつ天下普請など肉体労働のため地方から男性を集めた。

その後、街づくりが落ち着いて歴史を重ねる事で男女比率が平準化されています。

1720年享保 女性1対男性1.7

1830年天保 女性1対男性1.2

1867年慶応  1:1.02

 

話は変わりますが、人口増加を支えた新田開発も説明されています。

まるで列島改造のようです、江戸時代には環境破壊がすごかったようです、 信玄堤、荒川瀬替、利根川瀬替、大和川付替えによりデルタ地帯に新田開発。

江戸時代には3回の新田開発ブームがあった。

西日本は海の浅瀬干拓、東日本は湖沼干拓

吉宗の時代、紀州から為永を呼んで印旛沼、見沼、飯沼、見沼、手賀沼、紫雲寺干拓を実施。

印旛沼手賀沼は失敗したそうです。ちなみに田沼意次印旛沼開発に失敗して失脚を加速させます。

これらの開発により浅瀬や沼は埋め立てられ開発余地が無くなっていきます。

 

江戸期の災害

江戸265年間で241年度に災害発生。675項目の災害。つまり9割の年度で災害が発生。

人口が増加し、食料生産のバッファが少ないためすぐに飢饉になる。

江戸時代は寒冷期であった事も原因ですが、人口が増えたため今迄人が住まなかった山や川の近くに住むため災害に巻き込まれる。

人口が密集しており地震→火事といった2次災害が大きくなる。

 

都市の衛生

人骨調査から江戸の成人人口の半数が梅毒にり患していたとの説がある。

成人男性が多かった江戸初期なら多いだろうが、それにしても・・

映画、吉原炎上でも遊女が梅毒で狂うシーンがありますし根拠があったんですね。

 

山林:燃料を薪炭に依存していた。築城など大規模工事に木材が必要となった。人口が増加した。伐採しすぎて河川氾濫が発生したため、各藩は伐採を禁止したり、植林する令を出したりしている。

江戸時代には既に環境破壊が起きていたんですね。

江戸後期には本土で木が減ってしまい、屋久島や松前からも木を運んだ。

 

江戸のごみは永代島に集められた。追加で猿江がゴミ捨て場になったが1年で一杯になった。富岡八幡宮門前町はごみの埋め立て。深川越中もごみの埋め立て。

人口の8割が江戸の2割の下町に集中したためごみも下町に集中したのだろう。

さすがに300年以上経過しているので土壌は安定しているでしょうが、大地震とか発生したら大丈夫でしょうか。

地中を掘ったら江戸のゴミが見つかるのかな。
 

文明としての江戸システム

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安藤広重

 「文明としての江戸システム」鬼頭 宏 先生 講談社

 

読書感想文です。頭のいい大学教授が長年専門に研究して書いた本はやっぱり素晴らしいです。定年後に手元に置いて3カ月くらいかけて読み込んで勉強したいくらいです。

第一章の最初の数ページからして私の感性を揺さぶるります。

 

そこには永井荷風が愛した大正初めの江戸の名残から始まります。

荷風は晴雨にかかわらず下駄と蝙蝠傘をもってひとりで幕末の切絵図を手にして「てくてく歩き」をしていたそうです。

今私が楽しんでいるウオーキングと似たいような事です。

荷風葛飾北斎歌川広重が描いた江戸名所風景、松・柳・桜などの樹木や、品川海湾・隅田川・江戸川・神田川江戸城を取り巻く濠、不忍池を愛したそうです。

この本ではありませんが、赤坂溜池について調べていた時に見つけた荷風の文章も心に残りましたので紹介します。永井荷風のこれらの本も一度読んでみたいです。

「水 附渡船」より。「上野の山も山王神社の高台も、麓の溜池があって山水の趣がある。老樹鬱蒼として生い茂る山王の勝地は、その翠緑を反映せしむべき麓の溜池あって初めて完全なる山水の妙趣をしめすのである。」

 

さて話を戻してこの本の巻頭に掲載されている歌川広重の上野清水堂を見ると、偶然昨日TVで上野特集が放送されていて、画に書かれた円形の松が再現されているそうです。

私のように知識も想像力もない人間が、江戸時代の人々が見ていたであろう景色を再現できるのは文章ではなく絵画になります。

200年近く前に描かれた浮世絵の景色が一部でも現世で見ることができればタイムスリップしたような気持ちになれます。

切絵図や名所図を手に東京を巡る散歩は歴史に興味がある人だけが経験できる脳内トリップです。

お金はほとんどかかりませんが、海外旅行で欧州の古い宮殿や教会を巡るのと同等の興奮を感じる事ができます。

光都市とは、高級ホテルやブランド販売やオリンピック開催だけではなく、極東の不思議の国日本の近世を感じる事ができる景観や文化ではないでしょうか。

 

首都高速の地下化により日本橋が青空に出るためには3200億円。

江戸城天守閣再現には350億円が必要との事。

それは無理だとしても外濠を整備して美しい水が流れるようにし、神田上水懸樋を再現したり、両国広小路に蕎麦や寿司の屋台市を再現するなんてどうでしょうか。

 

 

さて、この本の第一章で記憶の残ったのは人口動態です。

縄文時代~現代までの日本の人口動態が説明されています。

江戸幕府開府の1603年 1200万人  江戸時代になって社会が安定し農業の高度な土地利用による生産性が上昇した。

江戸中期   1721年 3100万人 この間は爆発的に増加したが、江戸後期にかけて伸び悩む。明治維新により従来の薪炭エネルギーから石炭石油エネルギー革命により人口が再度爆発し、

2000年に1億3千万人に到達し江戸時代末期の4倍になった後、人口停滞期に入っている。

 

200年単位の人口増加期と停滞期を見ると現在の工業化社会は日本においては限界が来ているという事になります。

 

日本が次の人口爆発期を迎えることができるのでしょうか?またその時はどのようなブレイクスルーが起こっているでしょうか。

私はその時まで生きているのかな?

素顔の西郷隆盛

「素顔の西郷隆盛」磯田 道史氏  新潮社

磯田先生の本が読みたかったので、興味のない西郷隆盛の伝記を読みました。

本当に西郷に興味があるなら、著者が参考にした本「西郷隆盛詳傳」村井弦斎を読めばもっと詳細な内容がわかりそうです。

詳傳自体が現在から100年以上前に書かれており、西郷死亡から20年後という事ですので今よりは正確な証拠や証言が得られたと思います。

 

西郷隆盛は写真も自伝も一切残していませんが、逸話が多く、普通の人の価値観と異なりすぎてどうしても人物像がわかりづらいです。

 

西郷は神格化されてしまい、西郷なくして明治維新は成し遂げられなかったと言われています。

私は、プロセスは変われど西郷がいなくとも明治維新は起こったのではないかと思います。

戊辰戦争岩倉使節団の留守政府など重要なイベントのたびに他に人材がおらず鹿児島から招へいされていますので、明治維新屈指の立役者であっただろうことは推察します。

 

しかし、世界中が植民地と貿易時代を迎え、260年以上不変だった江戸時代の分制度や経済体制が陳腐化しており革命は避けられなかったと思います。

 

西郷隆盛が形成されたと思われる大きな要素はいくつかあるようです。

まず「薩摩藩」「島津斉彬」と思います。

私は仕事で南九州地方に6年ほど住んでいたことがあります。

鹿児島を含む南九州地方は現在でも男性を立てる風土が残っています。

武芸が盛んでマッチョでスパルタ教育で質実剛健の気風は何となく想像できます。

平成半ばころまでは鹿児島の多くの個人宅では西郷の絵が飾られていました。

幕末においても200年以上前の島津義弘関ヶ原の戦いで負けて苦労した事や、朝鮮出兵の苦労を教訓にして武芸を磨く風土があったとの事ですが納得できます。

 

また幕末の鹿児島の地域の青年会では記念日に曽我兄弟や赤穂浪士の討ち入りの物語を輪読して解説するする習慣があったそうです。

幕末においても忠義や敵討ちが大切だと教え込まれていたのですね。

当時は23歳になるまで酒もたばこも禁止で、女性の噂をしたら青年会で評定し一切口を利かなくして切腹させるのが習慣だったそうです。

英雄崇拝で縦社会です。

民族としては薩摩隼人、南方系で顔の彫りが深く、本州の平均身長より15センチ高い。

狩猟民族で狩りが習慣。私も九州在住時に知り合いが狩猟で仕留めた鹿肉を分けてもらったことがあります。九州は山深く自然が残っているので猪とか鹿猟は普通に今でもやっています。登山が趣味で霧島山に毎週登っていましたがよく鹿には遭遇しました。

何が言いたいかというと、現代においても東京からすれば異国のような雰囲気があるので、幕末であれば江戸からすれば異国だったと思います。

 

西郷が11歳の時に武者参りで喧嘩となり腕を切られてから不自由だったそうですが、薩摩藩は気風が荒く、子供の喧嘩ですまされています。

郷中教育によるブレストが教育に役に立ったとかいてありますが、郷中教育とは何か興味が湧きました。こうして学ぶほどに新たな宿題が増えて、永遠に学ぶ事が発生します。

西郷は郷士(下級武士)出身で貧しく、若くして父母を無くして兄弟も多くて貧乏だったそうです。だから武士とはいっても農民に近い目線があって、武士が農民から搾取する現実を身近に見て育ったため身分制度は悪い制度だと考えていたそうです。

明治維新は武士が武士の世を終わらせたといわれますが、武士と言っても色々なんですね。

 

若い頃の西郷は自ら先生を見つけて色んな勉強をしており学問への意識が高かった。

西郷が読んだ本のリストがあるようです。「四書五経」「資治五経」は294巻もあるそうです、「大日本史」なども読んでいる。

凄い勉強家ですね。

 

興味があったのは、西郷が仕えた島津斉彬の曽祖父はオランダかぶれで、斉彬はオランダ語を学んだり、爆薬を作る化学式を学んだりしていたようです。

日本中の大名の子弟で外国語を学んだ人が何人いたでしょうか?

鹿児島の旧集成館には2回ほど行ったことがありますが、反射炉や紡績、蒸気船、ガラス細工工房などが残されており明治維新の武力の源泉を感じることができます。

旧集成館は錦江湾沿いに桜島を遠望する場所にあり、近くに民家やビジネス街がないため、芋焼酎をのんで酔っ払いながら景色を見ていると江戸時代にトリップできます。

 

 

戦国時代の価値観が残る一方、琉球や海外との接触により技術や知識は開かれていたのが当時の薩摩藩であり、これを実感するとなぜ明治維新で薩摩が活躍したのか理解が深まります。

あとは知覧城下町に行くと、薩摩の特殊な麓と呼ばれる外城の仕組みが体感できて、薩摩は江戸幕府治外法権であり、常に江戸幕府への反発があったことが理解できます。

当時オランダ語の通訳官がいたのは幕府と佐賀藩薩摩藩だけだそうです。

長崎のオランダ語通訳官から養子を迎えて通訳部隊を作って海外情報を収集していたそうです。

鹿児島の南の離島には外人とイザコザが発生しており攻撃されるリスクを身に染みて感じていたため、黒船来航を予言していたそうです。

26歳で江戸に出た西郷は庭方役として水戸や越前藩との外交役をしていた。

庭方とは諜報活動、インテリジェンス活動と表現されていてわかり易い。

 

この時のスキルが後年、戦略家、政治家としての情報収集能力を育てたそうです。

 

当時各藩の有志が集まってオランダ語を読む会が開かれていたようです。

山内容堂、橋本佐内、宇和島伊達宗城、春嶽などが参加しており、特に佐内が優秀なので司会役になったとの事。

維新で活躍した藩はトップが海外への理解があったという事ですね。

安政の大獄は幕府が反乱分子を処刑したというより、幕末最高のインテリジェンスと言われる、佐内、松陰を井伊直弼が処刑する事で長州、越前藩の外交力を削ごうとした事が理解できます。

 

話題はそれますが、朱子学陽明学の違いが記載されていて興味深い。

自由と民主主義の現代に育った私には難解で理解しがたい理屈ですが、歴史を学ぶ上では必要な知識だと思いました。

江戸時代を通じて武士の教科書のような位置づけだったようなので、この価値観を理解する事が有益かもしれないです。勉強することがまた増えました。

朱子学のテキストは「大学」であり、「格物」「致知」「修身」「斉国」「治国」「平天下」からなるとの事。そうだったのか!儒教思想なのだね。世の中にある現状を理解し受動的に受け入れる事から始まる。  一方で

陽明学は現状を理解し、本来あるべき姿に正す。能動的教えでありその点で真逆。

天皇より将軍が偉いのは本来の姿でないから正さなければいけない。尊王革命思想。

だから幕府が認めない危険思想。吉田松陰に代表される。

斉昭の水戸学もその点では陽明学に近い。

だから水戸藩出身の慶喜は朝敵となることを恐れて鳥羽伏見の戦いから逃げて隠居したのですね。

 

西郷に戻ります。30歳の頃、錦江湾で幕府から追われていた勤皇僧月照と心中事件。西郷は3日意識不明となるが生き残る。

自殺して西かけた経験によってここから命知らずになるようです。

学生の頃習った西郷が理解できなかったはずです。

人生の経験値や価値観があまりにも常人とは異なる。

31歳で奄美流罪となり現地妻に子供ができる。

奄美は奴隷社会で西郷はヒザを開放した)

33歳で久光公に公武合体のため呼び戻される、

34歳で久光公をジゴロ扱いして徳之島で3m四方の風呂無牢屋に3年間監禁。

最後は歩けない状態になっていたそうです。

36歳で禁門の変の指揮や長州征伐の収拾のため召喚。幕府軍3名で長州に入り、長州3家老の切腹で戦争を回避する事に合意します。征伐軍の参謀の身分であり交渉に失敗すれば殺される可能性がある単身敵地に乗り込むリスキーな戦略。

40歳で鳥羽伏見戦を指揮

奥羽列藩同盟を破ると鹿児島に帰ってしまい温泉三昧。

明治2年天皇から賞典禄。 正三位  年収3億円相当を生涯支給。

西郷は大久保に怒った。今は新しい世の中を作るため。海外との交際もあり、軍備を増強しなければいけないこの時期に無駄なお金を使うなと言って返上。

大久保や岩倉が東京で豪邸を立て、酒色におぼれ、豪奢な生活になる中で、西郷は鹿児島で酒も飲まずに質素な生活。西郷は陸軍大将。陸軍海軍警察は薩摩出身者が占める。

日本橋の家がみすぼらしすぎて岩倉から新築を進められるが興味がなかった。

毎月の給料は現在の価値で1800万円、現金が自宅にレンガのように積まれていたそうです。

贅沢どころか、並みの生活にも興味がなかったのでしょうね。

 

私にはまったく理解できません。

酒や贅沢な食事に興味はありませんが、月収1800万円なら、大きくなくても趣味的な家を建てたいですね。

別荘も欲しいな。

 

磯田先生らしい解説として、西郷の文字の分析が面白かったです。

同じ大きさで規則正しく並んでいて、行間も等しく、最後まで文字が小さくならない。文

字を書く前に時数や文章を決めている証拠。文章を決めてから書いており、考えてから書くまでの間に溜めがある。計画性があり、精神的に落ち着いた状態との事。

一方、坂本龍馬高杉晋作は計画性がなく、思いついたことを書きなぐるため最後の方になって行が足りなくなって字が小さくなっているとの事です。

大石内蔵助も西郷とよく似た文字だそうです。

 

最後は西南戦争で自害、49歳。

死んだときには肥満で心臓病、帰省中で肥大化した睾丸、皮膚病などで検死したそうですから長年のストレス、流刑や質素な生活が偲ばれます。

靖国神社と北の丸

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田安門

 

四ツ谷駅で降りて外堀沿いに市ヶ谷まで歩きます。

四谷桝形石垣の説明版を読む。

熊本藩細川家記録によると、寛永の外濠普請で伊豆半島から1万3千石が運び出されたそうです。

細川家といえば品川に広大な屋敷を構え、赤穂浪士切腹の介添を自藩で出せるほどの大大名ですから普請の負担も大きかったと思われます。

肥後藩主細川忠利は、「とかく日本もくたびれは止み申すまじく候」と書き残しています。

 

 

市ヶ谷で靖国神社に向けて右折。

ここでやたらとパトカーや右翼の街宣車が走っています。

あれ?今日は何の祝日だっけ・・天皇誕生日ですね、納得。

さてついでなので東郷元帥記念公園に寄り道。

工事中です。説明版を読みます。この辺りは番町になりますが、大村益次郎鳩居堂永井荷風国木田独歩与謝野鉄幹なども住んでいたようです。

地方出身者から見れば、番町に限らず外濠の中を歩いていると、国会や国の主たる公官庁。マスコミ、企業の本社、各国大使館が並んでいてエリートが住む場所だなと感じます。

 

東郷元帥はバルチック艦隊を破った事で有名です。

個人的には第二次大戦には興味がありますが、日清日露戦争はほとんど知識がないのでパス。

暫く歩くと靖国神社

ここでゼロ戦大村益次郎の像を見ます。

江戸城歩きの趣旨からすれば大村益次郎の話題を選ぶべきでしょうが、昔第二次大戦の本もよく読んでいたのでその時のうろ覚えをかきます。

ゼロ戦はスピードや旋回性能を高めるために座席周りの鋼板が薄く、敵の銃弾があたればひとたまりもなく墜落したそうです。

一方グラマンは鋼板が厚く、銃撃されても乗組員は守られたそうです。

日本の軍部はゼロ戦の性能が高ければ銃弾を浴びる事はないので良いと考えていたそうですが、戦闘機は上空にポジショイングした方が有利となりますし、圧倒的な数の差があればやはり有利となるため後半にはゼロ戦でも不利になったようですね。

人間の命をどう見るかが戦闘機の設計にも反映されます。

またゼロ戦は空気抵抗を減らすためにビスを全て埋め込んでおり、軽量化するために座席の鉄板にも穴が開けられており当時としては画期的で高い技術だったようです。

今で言えばFIカーみたいなものですね。

また、真珠湾攻撃では日本から6千キロはなれたハワイで、空母6隻が約3百機の戦闘機を運用して攻撃したわけですが、大変高度な戦略だとの評価もあります。

だって飛行場の発着を見ても一度に100機単位で発着させて衝突しないなんて神業ですよね、しかも海上で移動している6隻の空母が短い滑走路の替りですよ、カタパルトもないから訓練してないと海にドボン。空母もどれがどれだかわかりませんし、旅客機みたいにレーダー誘導されるわけでもないし、無線と言っても一度に100機とか無線で制御できない。

アメリカは暗号を解読して知っていたといわれますが、こんな空母運用は世界で初めてだったので予測できなかったと思います。

まあ、現代の戦争は核兵器や情報戦が主なので、今後も複数空母による作戦は行われることはないだろうといわれています。

まあ戦略がいかに優れていても戦争は悲惨であり一切肯定しません。

 

さて、話を令和に戻しましょう。令和元年は150周年だったらしく、全国の県の靖国神社から桜花形の陶板が寄贈されて境内に設置されています。

各県の特徴が出ていて、郷土の土で作成されており見ていて飽きません。

 

神社を出て陸橋を渡ると田安門へ続く坂道の入り口です。

九段坂の常燈明台が」あります。明治初期には品川沖から見えたとの事、当時の地形を偲ばせますね。

説明版に夜の絵がありますが、当時は付近に人手が少なく気味悪い場所だったのかもしれません。

説明版に幕末の田安門の写真があります、写真を撮影した同じ場祖から見ると門の上に武道館の光る玉ねぎが目立ちます。

当時を想像したい人にとっては幻滅する景色でしょうが、100年後には武道館も史跡の一つになっているかも知れませんね。

江戸は歴史がありつつも世界屈指の都市であり続けているため、歴史の景観が変わってゆくのもやむをえないでしょう。

日本の経済力もバブル崩壊以降長期低迷しているので、お金をかけて景観を保存しつつ都市を発展させる余裕はないでしょうね。

コロナ禍の前までは観光都市を目指していいたので色んな説明版やホテルは整備されていますが・・。

コロナでイベント少なめの武道館を通り過ぎて清水門へ向かいます。

個人的には清水門の辺りが城の防備の構造がわかり易くて好きです。

自分が城を攻める立場になったつもりで橋から城内に入ってみました。

橋を渡るところから上から鉄砲や矢で撃たれますね。

そして清水門を入るために右折したところで桝形の三方から撃たれます。

清水門を突破してもそこははやり桝形で土手に囲まれています。

そこから階段を上っていくため常に上から撃たれる構造になっています。

 

千鳥ヶ淵縁道から淵を眺めるのを楽しみにしていましたが全て立ち入り禁止になっていました。

旧近衛司令本部である近代美術館別館も移転して立ち入り禁止です。

 

その後戦没者墓苑へ行きましたが、これも工事中で園内には私以外誰もいませんでした。

世界大戦ではインパールから南洋諸島に至る広範囲に戦線が拡大しており、名もなき戦没者の遺骨や遺品が回収されたさまが地図で示されています。

地図で戦線を見るとその広さに驚きます、資源もない日本が、英米中と戦って一時とはいえこの範囲を占領したのですから。

しかしその陰には膨大な戦死者がいたのですね、靖国神社で「死の鉄道」と言われた泰緬鉄道建設の説明を見た後ではミャンマーのジャングルで死んでいった兵士の鎮魂を願わずにおれません。

 

江戸時代の大火で北風から江戸城本丸への延焼を防ぐために北の丸公園とその周辺は火除け地が多かったそうです。

ですから明治以降軍司令部や学校や靖国神社ができたのでしょうね。

また土地買収や工事がしやすかったので外濠沿いに高速道路や地下鉄もつくりやすかったとの事です。

 

徳川3代将軍により築かれた江戸城と外堀と上水が、現代の環状線や地下鉄や丸の内、霞が関を形成しているわけですね。

京都の皇居は土塀こそありますが城郭はありませんし濠もありません。

京都は盆地なのでお濠を巡らせる地形ではない。

鎌倉時代以降天皇は自らの軍隊を持たず、その時々の有力な武士や寺院の武力を利用するため自ら武装していなかったのだと思うのです。

天皇には権威はあるが、権力や武力や富はないので城郭がなくとも誰も攻撃しない。

したがって、江戸城がなければ皇居は城郭にはなっていないと思うのです。

それこそ赤坂御所のイメージです。

 

今日の出費は交通費約300円とお握り2つで300円。

2万歩以上歩いて健康になって、脳内トリップで十分楽しめます。

一石橋迷子知らせ石標

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今日の散歩は常磐橋近くの一石橋から。

現在の一石橋は平成だが親柱のみは大正11年のものが残っている。

橋のたもとにあった幕府金座御用の後藤庄三郎と同じく呉服御用所の後藤縫殿助の五斗を足して1石にしたとの事。

しかし呉服だから縫殿とはわかり易い。

親柱の陰に「一石橋迷子知らせ石標」がある。

迷子の情報交換をする場所で、江戸時代後半の日本橋近辺は盛り場で迷子が多かったそうです。

当時、迷子は町内会が責任をもって保護する決まり。

安政4年ころ。近辺の名主が町奉行に申請して設置されたたとの事。

左側に尋ね人、右側に心当たりの紙を貼って知らせたそうだ。

このほか湯島や浅草に同様のものがあったそうだが、現存するのはこの一石橋のもののみだそうだ。石碑の高さは175センチ程度。

1857年作なので150年以上前からここに立っている。

その先にあるのが常磐橋。昔は皿だと割れるので石を使った漢字を当てたそうです。

橋の北西には渋沢栄一銅像

北東には旧日銀本館がそびえます。江戸時代の銀座の跡地に日銀があるそうで、お金に縁がある場所という事ですね。

旧日銀本館は明治29年辰野金吾作との事で、明治も後半に造られたようです。

この辺りは銀行の建物が多く日曜日は閉館されており、裏通りは高級ホテルやレストランがありますがコロナの影響もあり日曜日の午前はひっそりとした佇まいです。

TVでよく見る日銀の上級からの映像では青銅武器の屋根が良く見えますが、地上からでは壁が邪魔になって見えません。

写真を撮ろうとウロウロしていると対面にある日銀別館に日銀がやっている「貨幣博物館」を発見。無料という事で入ってみました。

空港の持ち物検査なみのチェックを受けて入館。

無料なのに物々しい警備だなと感じましたが、館内には大判小判がたくさん展示されており警備も納得です。

撮影禁止なので入口の写真のみ撮影します。

とても充実していて1時間では回り切れませんでした。

ここでかなり時間を取られてその後の予定が大幅に狂う事に。

貨幣博物館で学んだ事だけでもブログ4回分にはなるボリュームです。

歴史の史跡ガイドブックには載っていませんでしたが江戸時代を知るためには大変有意義な博物館なので一見の価値があります。

私は金融機関で働いていたので貨幣改鋳により江戸時代に何度もインフレやデフレが発生していることを興味深く感じました。

幕末に海外と日本では金と銀の交換比率が3倍違うことに目を付けたハリスが日米修好通商条約により莫大な利益を上げた事がわかり易く掲示されています。

  • アメリカから銀貨5枚を持ち込んで、日本の銀貨5枚と交換する
  • 日本の銀貨5枚で日本の金貨1枚と交換する
  • 日本の金貨1枚をアメリカで銀貨15枚に交換する
  • これを1年で5回繰り返して、1年で15倍にしたそうです。
  • ここまでは通貨博物館で掲載されていましたが、更にアメリカは南北戦争が終わって不要になった武器を西国雄藩に売って儲け、南北戦争の借金を返済したとの説を読んだ記憶があります。

江戸時代は国内でも商人が相場やレートの差によって儲けた。

貨幣改鋳による金貨と銀貨の交換比率、飢饉や災害による米や木材の相場。

現代のようにIT革命により瞬時に相場情報が世界中に広まる時代とは違って、レート情報が大きな価値を生んだのが江戸時代ですね。

江戸時代の貨幣について改めて別途勉強したいと思いました。

昨日読んだ磯田道史氏の「江戸の家計簿」とも関連する解説もありましたし、NHK大河ドラマ渋沢栄一にも関連しておりタイミングが合ってます。

1両小判の現物を見ながら、現在の労働価値では30万円だったよな、なんて思い出しながら見ていました。

父の死①

 

土曜日の散歩中に関西に住む母から携帯に電話があり「あのね、お父さんが亡くなったの」と告げられました。

父は高血圧でしたがそれ以外は病気もなく、前日まで普通に生活していたとの事。

前夜、動悸がするといって母の不整脈の薬を飲んで寝たそうです。

翌日昼頃まで起きてこない父の死を母が見つけたそうです。

死体検案書には2月6日の夜から7日の朝の間に急性心不全で亡くなった記載がありました。

電話で父の死を聞いた私は、月曜日に会社の仕事を片付けて休暇を取って帰省する事にしました。

 

私は大学を卒業して転勤族となり実家には盆暮れしか戻らない生活を続けて30年以上経過しました。

父と一緒に生活した年月より離れて生活した方が長くなり、それが当たり前になっていました。

最近父は耳が遠くなり電話しても母がでるだけで父は出ませんでした。

コロナの影響も重なり1年半ほど実家に帰っていませんでしたので、父の存在は遠いものになっていました。

 

自分も50代半ばとなり、体力と気力の低下を自覚していて、下手すると父より先に自分が亡くなるかも知れないなんて思っていました。

最近は90歳を超えて生きる人も多いですが、男性の平均寿命を超えて享年91歳で亡くなった父は天寿を全うしたと言えるでしょう。表面上は母も動揺しているように見えません。

私も50代半ばで身の回りの人の死に馴れた事もあり冷静でした。

 

母から全く同じ電話が2回あり、1回目の電話を覚えていない風でしたので、弟に電話すると弟にも2回電話があったとの事で、父の死より母に対して違和感と不安を覚えました。

実家に帰ると母が老いており、10分前に行ったことが覚えられない状態でした。

通夜や葬儀の時間、段取りを何度説明しても覚えられない。

カレンダーに書いても覚えられず、全てをカレンダーに書くためカレンダーは真っ黒になってしまい、増々分かり難くなってしまいました。

6日間ほど弟と実家に滞在し、葬儀や公的手続きを行いつつ、母を脳神経外科に連れて行って診察し、相続財産の把握を行うなど多忙な時間を過ごしました。

母のボケを知り動揺した事と、死亡手続の煩雑さから父の死を実感する時間がありませんでしたが、棺を閉じる最後に父の顔を撫でてあげたとき、泣きそうになりました。

そして、火葬場で炉に入れる前に合掌したとき、魂だけでなく肉体も現世から消える事を認識して泣きそうになりました。

 

 

 

ここで父の人生の一部を振り返りたいと思います。

父は自分の半生を多くは語りませんでした。

私も子供に自分の半生を語った事はありませんのでそれが普通だと思っています。

いつ父が死んでもおかしくないと考えた私は1年半ほど前に電話で父の半生をインタビューしたのです。

 

私にとってお爺ちゃんに当たり、父にとって父に当たる人は医師であったがヒロポン中毒のため戦中は勤務先でよく問題を起こして北炭や満鉄など転職を繰り返し、辺境の地を転々とし、戦後は船医として海上で過ごしました。

父の本籍は石川県で、本家を辿れば旅館をしていたそうです。

父は金沢で旧制中学の受験に失敗し、世間体を気にしたお祖母ちゃんは当時満州で満鉄に勤めていたお爺ちゃんを追って満州に渡り、そこで終戦を迎えたのです。

満州の冬は氷点下20度、下手をしたら満州で死んでいたかもしれません。

 

戦後の混乱期で父は1年遅れて高校受験を行ったため良い成績で合格し、その後北大に進みます。

北海道で獣医となりましたが、牛のお産のため厳冬の夜道を車で往診したり泊まり込みで出産する仕事が厳しくて嫌になり、数年で関西の保健所に転職しそのまま関西に定住しました。

 

父の弟は身体障碍者であったため、父は節約して弟や親の面倒を見ていました。

母は収入が低い公務員の父が、医師であったお爺ちゃん一家を経済的に支援することを不満だとよく愚痴を言っていました。

母の父は高級住宅街でペットの獣医をして儲かっており裕福だったため、母からすれば父との生活は質素だったのに祖母ちゃんにお小遣いを上げていたんです。

父は保健所勤務でしたので食品店の衛星点検巡回をするついでに当時としてはハイカラなお菓子をよく貰って帰ったり、レバーペーストやフランスパンなどを買ってました。

車もなく借家で贅沢せず外食も全くしませんでしたが、食費はかけていたと思います。

私も車は持っていませんし、外食もせず、節約家の部類です。

 

父は真面目で読書が趣味。北海道にいたのでスキーができました。

石川の特産であるいかの魚汁で茄を鍋にした料理が好きでした。

鮑も好きでした。

手塚治虫火の鳥を全巻揃えていた。

父が家に積んでいた司馬遼太郎吉川英治の本を小さい頃から読んでいた私は国語や歴史が好きになった。

本にはお金をかけていました。

子供の頃の父の思い出は。スキーに連れて行ってくれたこと、海水浴、キャッチボールしてくれたこと。

 

旅行の計画を立てるのが好きで、国鉄の時刻表で計画を立てて年に1回家族旅行に連れて

行ってくれましたが、私は観光より遊びがすきなので海やスキーは楽しい思い出です。

高校入学の時にハワイに連れて行ってくれたのが最後の本格的な旅行でした。

 

 

父は株が好きで、毎週日曜日にチャートをつけていました。

古くからの某大手証券の顧客コードが一桁でした、その影響ではありませんが、私は証券会社に就職することになるのです。

理系の父に数学や理科の勉強を教えて貰っていました。

 

父は子供に独立するよう仕向けましたので就職後に家に帰ってこいとは言いませんでしたが、バブル崩壊で私の勤務先が倒産した時には実家に帰ってきても良いと言ってくれました。

私が家を出て独立した後、父が定年し、今の実家を建てて住みました。

ですから私は今の実家で育ったわけではありません。

定年後は1年くらい企業の衛生顧問として週に2回ほど勤務していましたが、すぐに退職して悠々自適の定年生活に入りました。

海外旅行に20回くらい、国内旅行も同じくらいいったそうです。

友人もほとんどおらず、趣味もなく。ボランティアをするわけでもなく、毎日じっくり新聞を読んでTVを見て、散歩して読書三昧の生活。

80歳を過ぎてからはやることが無いとか、いつ死んでもよいとよく言ってました。

父の世代はこんなに寿命が延びるとは考えられていなかったので、定年後を充実させる準備をしなかった世代と思います。

 

子供の頃の私は真面目でケチで地味な父は人生を楽しんでいないと考えていましたが、自分が50代半ばになると父との共通点が目につきます。

このままいけば定年後は父と同じような生活になりそうです。

父には定年後の現実や体力、精神状態などを聞きたいと考えていたのですが、聞く事なくお別れとなりました。

父の世代と違い、寿命が延びて定年後は余生ではなく第二の人生だと言われているので父よりも充実した定年後を設計したいと思います。

 

さて、葬儀で実家に滞在した6日間で仏壇にお線香をあげられたのは1回だけ。

不義理してごめんね。

カラー版 江戸の家計簿

著者:磯田道史

カラー版 江戸の家計簿

宝島新書

 

この本を読むのに一番重要な事は「前書き」と「この本で使う基準」のページです。

 この本に記載されている1両を「現在の価値」には以下の2つがあるとの事。

 1両をお米の価値で現代に換算すると6万円。労働の価値で換算すると30万円。

つまり江戸時代と現代では、お米の価値と労働の価値の差が広がっているという事を理解しながらこの本を読まないと誤解すると思います。

 

遠山の金さんの俸禄は1,050石なので、1,050両

  • お米換算価値:6,615万円
  • 労働換算価値:3億1500万円

 

なぜこうなるのか。今より当時はお米の価値が約6倍高かったという事だろう。

現代は品種改良、農薬や農耕機械が進歩して生産性が上がり、安い外米が輸入可能となり、小麦など主食の多様化により江戸時代より米の価値が相対的に低下したのだと思う。

 

一方、行商や髪結、商売人などのサービス労働は輸入ができず、お米など農産物のように生産性が高まっていないのでしょうか。

散髪屋さんの髭剃りとか、博多の屋台の労力は江戸時代も今も同じ気がします。

 

遠山の金さんの俸禄は労働力の価値としては3億円を超えていたが、現代の最高裁判事の年収が4千万なのでサラリーマンとしては想像を絶する別格。

しかし、その俸禄をお米のまま現代に持ってきて換金すれば6,615万円分相当。

 

年収が3億円を超えていても、年収の中から、武士として40名ほどの家来を持たないといけないので自分が使えるのはどれくらいだったのでしょうか?

使用人40人の年間コストは、労働価値で試算してみると、仮に年収300万円×40人=1億2千万円。

町奉行は激務でスーパーエリートで2度に1名~1名しかいない希少な職業なので庶民の事例を見たいと思います。

 

紀州藩士 酒井さん。江戸勤番時の家計の古文書が残っているようです。

年収が労働価値では600万円で想像の範囲内です。しかし、お米の価値にすれば年収100万円になってしまいます。

食事を見ると、お米は朝炊いてそれで1日を賄います。朝はご飯とみそ汁。昼はお米と魚。夜はお米と香の物。江戸時代は豆腐がよく食べられていたのでたんぱく質は何とか補充できたと思われますし、お米が3食あるので炭水化物も何とか補充できた。

ビタミンとか脂質が不足してる感じですね。

余談ですが、地方では雑穀米でしたが、江戸ではお米が集まるため白米であり脚気になりやすく、江戸患いと呼ばれていました。

 

労働価値と米の価値に加えて異なる貨幣が使用されているため江戸時代の「価値」を現代と比較するのは大変難しいようです。

商業では、西日本は外国交易もあり銀。東日本は金が使われた。

農業や大名の俸禄はお米。庶民は銅銭。

全国規模で商売をするなられらのレートを見ながら売買と決済をする必要があるんですね。

現代で例えるなら多国間の貨幣や原油を決済するイメージでしょうか。

 

人口の8割を占める農民の収支は、農民の識字率が低く、記録が少ないようですが、年収400万円で支出が340万円、貯金が60万円(2両)であり、飢饉が発生しなければ普通の生活が送れていたようです。

 

大工の年収は労働価値だと800万円、お米価値だと140万円くらい。

歌舞伎を見て、子女に習い事をしていたが、借家で貯金はなく宵越しの銭はもたない。

火事があると年収が高騰する。

貯金したり物欲を満たしても毎年火事で灰になるだけなので使い切る。

毎年火事が発生するから大工が失業することはない。

事故や高齢で働けなくなったら終わり。

 

家計簿から少し外れますが、調味料の項目が面白かったです。

江戸時代の醤油は関西物で大麦を使っており上品かつ甘口で高価だった。

関東では小麦を使い、香りが強い濃い口醤油が出来て廉価となり普及化した。

濃い口消費は香りが高いと蕎麦や鰻のタレに適していた。

江戸を学ぶことが現代の食習慣の理解にも繋がります。 

 

江戸時代味噌は家庭で作るものだった。

江戸の甘味噌は塩分が少なく日持ちが10日しかない。

塩分が多い仙台味噌は参勤交代で江戸に広がった。

徳川家の東海の豆味噌も広がった。

江戸時代から各地の味噌が流通して合わせ味噌も流行していたそうです。

 

下総の行徳は塩の産地だったが、瀬戸内海が干満の差による干潟塩田であるのと異なり人力で海水を陸揚げするため労力が必要で生産が少なかったため、瀬戸内海の塩が行徳の20倍も輸送された。

だから東京でも赤穂の塩がブランドなんですね。その塩で儲けていた赤穂藩の討ち入りも有名。 

 

魚一匹の値段は以下のとおり。

 

鯖 5千円    鯛2万~20万  初ガツオ15万  マグロ3千円

鯉 8千~5万円  フナ4千円   ナマズ8千円

面白いですね、マグロが一番安いです。当時マグロは下品な青魚と言われていたそうです。

初ガツオの値段は載っていますが、普通のカツオはおいくらだったのでしょうか?

現代でも大間のマグロの初セリは何億円とか報道されますが。

 

鶴は時価だが10万円くらい、鴨は2万円くらい、鶏卵は1個100円。

 

これらの記録、実はシーボルトが調査した380種類のリストのコピーがベルリンの日本研究所に所蔵されていたものを分析したそうです。

シーボルトは単にオランダ商館医として日本に派遣されたのではなく、交易相手としての日本の社会経済物産の総合調査の使命が与えられていたそうです。

また、学者の家系であり、家名を上げるために博物学や植物学も的研究もしていたとの事。

高校の教科書には「オランダ商館医であったドイツ人シーボルト鳴滝塾を開き長野長英らを育てた」とだけ記載されていますが、江戸の物価研究に大きな貢献をしていたんですね。

 

話は変わります。

江戸では火事防止のため天ぷらは屋台で食べるのが基本。

今だと屋台で立ち食いは行儀が悪い感じになりますが、当時は防火のためもあったんですね。

火事が多く店は焼けるため屋台で人手の多い所で商いをするのは合理的だった。

今でも縁日の屋台で色んな屋台がたっていますが、今後は屋台を見ると江戸時代を思い出す事になりそうです。 

寿司は現代と異なり1貫単位の販売、お握りくらいの大きさがあったので1貫で。

江戸でも当初うどんが多かったがなぜか蕎麦になった。・・なぜかは解決されません。

 

 

貴重な蛋白源は豆腐で、100種類の豆腐料理を紹介する本が流行ったそうです。

豆腐蛋白ならコレステロール値も上がらず健康的。

もし日本が貧乏になったら江戸時代の豆腐本を復活させて、皆で豆腐比率を上げてゆけば、健康にもなれる?

大豆さえあれば味噌も醤油も納豆も作れる。

鰻も江戸の代表的な食べ物で、墨田川の河口がブランド。

 

当時スイカは甘くなかったので砂糖をまぶしていた。でも当時は高価だった砂糖をまぶすと値段が2倍になるそうです。昭和初期はスイカに塩をかけてましたが・・・令和のスイカは甘いのでこれに砂糖をかけたら甘すぎですね。

 

江戸の人口は100万人。そのうち半分は武士。そして残りが町民。

武士は消費者。町民の一部は大工などの生産者だが、多くは物流やサービス業。

 

 江戸時代も今も江戸東京は巨大な消費地に変わりない。

江戸では男性一人当たり一升瓶10本を消費していた。

男性比率が高い事や、単身赴任の各藩江戸勤番の情報交換にお酒が使われた。

当時江戸を訪れた外国人は、墨田の花火や江戸の祭りやお酒の消費や屋台が並ぶさまをみて、「江戸は毎日がお祭りのような生活」と表現しています。

火事や地震や噴火などの災害も多く、人口も世界最大の刺激的都市東京だったんですね。