teinenchallenge’s blog

普通のサラリーマンが充実した定年後を目指します

父の死①

 

土曜日の散歩中に関西に住む母から携帯に電話があり「あのね、お父さんが亡くなったの」と告げられました。

父は高血圧でしたがそれ以外は病気もなく、前日まで普通に生活していたとの事。

前夜、動悸がするといって母の不整脈の薬を飲んで寝たそうです。

翌日昼頃まで起きてこない父の死を母が見つけたそうです。

死体検案書には2月6日の夜から7日の朝の間に急性心不全で亡くなった記載がありました。

電話で父の死を聞いた私は、月曜日に会社の仕事を片付けて休暇を取って帰省する事にしました。

 

私は大学を卒業して転勤族となり実家には盆暮れしか戻らない生活を続けて30年以上経過しました。

父と一緒に生活した年月より離れて生活した方が長くなり、それが当たり前になっていました。

最近父は耳が遠くなり電話しても母がでるだけで父は出ませんでした。

コロナの影響も重なり1年半ほど実家に帰っていませんでしたので、父の存在は遠いものになっていました。

 

自分も50代半ばとなり、体力と気力の低下を自覚していて、下手すると父より先に自分が亡くなるかも知れないなんて思っていました。

最近は90歳を超えて生きる人も多いですが、男性の平均寿命を超えて享年91歳で亡くなった父は天寿を全うしたと言えるでしょう。表面上は母も動揺しているように見えません。

私も50代半ばで身の回りの人の死に馴れた事もあり冷静でした。

 

母から全く同じ電話が2回あり、1回目の電話を覚えていない風でしたので、弟に電話すると弟にも2回電話があったとの事で、父の死より母に対して違和感と不安を覚えました。

実家に帰ると母が老いており、10分前に行ったことが覚えられない状態でした。

通夜や葬儀の時間、段取りを何度説明しても覚えられない。

カレンダーに書いても覚えられず、全てをカレンダーに書くためカレンダーは真っ黒になってしまい、増々分かり難くなってしまいました。

6日間ほど弟と実家に滞在し、葬儀や公的手続きを行いつつ、母を脳神経外科に連れて行って診察し、相続財産の把握を行うなど多忙な時間を過ごしました。

母のボケを知り動揺した事と、死亡手続の煩雑さから父の死を実感する時間がありませんでしたが、棺を閉じる最後に父の顔を撫でてあげたとき、泣きそうになりました。

そして、火葬場で炉に入れる前に合掌したとき、魂だけでなく肉体も現世から消える事を認識して泣きそうになりました。

 

 

 

ここで父の人生の一部を振り返りたいと思います。

父は自分の半生を多くは語りませんでした。

私も子供に自分の半生を語った事はありませんのでそれが普通だと思っています。

いつ父が死んでもおかしくないと考えた私は1年半ほど前に電話で父の半生をインタビューしたのです。

 

私にとってお爺ちゃんに当たり、父にとって父に当たる人は医師であったがヒロポン中毒のため戦中は勤務先でよく問題を起こして北炭や満鉄など転職を繰り返し、辺境の地を転々とし、戦後は船医として海上で過ごしました。

父の本籍は石川県で、本家を辿れば旅館をしていたそうです。

父は金沢で旧制中学の受験に失敗し、世間体を気にしたお祖母ちゃんは当時満州で満鉄に勤めていたお爺ちゃんを追って満州に渡り、そこで終戦を迎えたのです。

満州の冬は氷点下20度、下手をしたら満州で死んでいたかもしれません。

 

戦後の混乱期で父は1年遅れて高校受験を行ったため良い成績で合格し、その後北大に進みます。

北海道で獣医となりましたが、牛のお産のため厳冬の夜道を車で往診したり泊まり込みで出産する仕事が厳しくて嫌になり、数年で関西の保健所に転職しそのまま関西に定住しました。

 

父の弟は身体障碍者であったため、父は節約して弟や親の面倒を見ていました。

母は収入が低い公務員の父が、医師であったお爺ちゃん一家を経済的に支援することを不満だとよく愚痴を言っていました。

母の父は高級住宅街でペットの獣医をして儲かっており裕福だったため、母からすれば父との生活は質素だったのに祖母ちゃんにお小遣いを上げていたんです。

父は保健所勤務でしたので食品店の衛星点検巡回をするついでに当時としてはハイカラなお菓子をよく貰って帰ったり、レバーペーストやフランスパンなどを買ってました。

車もなく借家で贅沢せず外食も全くしませんでしたが、食費はかけていたと思います。

私も車は持っていませんし、外食もせず、節約家の部類です。

 

父は真面目で読書が趣味。北海道にいたのでスキーができました。

石川の特産であるいかの魚汁で茄を鍋にした料理が好きでした。

鮑も好きでした。

手塚治虫火の鳥を全巻揃えていた。

父が家に積んでいた司馬遼太郎吉川英治の本を小さい頃から読んでいた私は国語や歴史が好きになった。

本にはお金をかけていました。

子供の頃の父の思い出は。スキーに連れて行ってくれたこと、海水浴、キャッチボールしてくれたこと。

 

旅行の計画を立てるのが好きで、国鉄の時刻表で計画を立てて年に1回家族旅行に連れて

行ってくれましたが、私は観光より遊びがすきなので海やスキーは楽しい思い出です。

高校入学の時にハワイに連れて行ってくれたのが最後の本格的な旅行でした。

 

 

父は株が好きで、毎週日曜日にチャートをつけていました。

古くからの某大手証券の顧客コードが一桁でした、その影響ではありませんが、私は証券会社に就職することになるのです。

理系の父に数学や理科の勉強を教えて貰っていました。

 

父は子供に独立するよう仕向けましたので就職後に家に帰ってこいとは言いませんでしたが、バブル崩壊で私の勤務先が倒産した時には実家に帰ってきても良いと言ってくれました。

私が家を出て独立した後、父が定年し、今の実家を建てて住みました。

ですから私は今の実家で育ったわけではありません。

定年後は1年くらい企業の衛生顧問として週に2回ほど勤務していましたが、すぐに退職して悠々自適の定年生活に入りました。

海外旅行に20回くらい、国内旅行も同じくらいいったそうです。

友人もほとんどおらず、趣味もなく。ボランティアをするわけでもなく、毎日じっくり新聞を読んでTVを見て、散歩して読書三昧の生活。

80歳を過ぎてからはやることが無いとか、いつ死んでもよいとよく言ってました。

父の世代はこんなに寿命が延びるとは考えられていなかったので、定年後を充実させる準備をしなかった世代と思います。

 

子供の頃の私は真面目でケチで地味な父は人生を楽しんでいないと考えていましたが、自分が50代半ばになると父との共通点が目につきます。

このままいけば定年後は父と同じような生活になりそうです。

父には定年後の現実や体力、精神状態などを聞きたいと考えていたのですが、聞く事なくお別れとなりました。

父の世代と違い、寿命が延びて定年後は余生ではなく第二の人生だと言われているので父よりも充実した定年後を設計したいと思います。

 

さて、葬儀で実家に滞在した6日間で仏壇にお線香をあげられたのは1回だけ。

不義理してごめんね。