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島津斉彬のすべて

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島津斉彬のすべて

お由羅ら騒動とは愛妾の子を藩主にしたい斉興とお由羅
を支持する一派が起こした不祥事というイメージでした。
しかし、藩の財政問題が最大の原因だと知りました。

薩摩藩の借金の推移
1810年代  100万両
1827年   500万両と借金が膨張していた
1828年   調所広郷が歴代のお歴々に呼び出されて
      500万両の借金返済を命じられる。
この時、調所は一旦命令を断っているますが、他に人がいなく最終的に引き受けます。
調所は約10年で借金を整理することに成功。
長年苦しんだ藩の財政再建を再建した調所は財政面ではヒーローです。
10年以上にわたり藩に貢献したのです。
財政再建の方法は借金棚上げや琉球からの取り立て、贋銭造りなど問題もありました
が当時の薩摩藩の年間収入が14万両で、借金の金利が80万両だったん
ですから普通にやっていては破綻していたんですね。
再建後は藩主の後継争いに巻き込まれて老中阿部に自殺に追い込まれたといわれています。
この時73歳でその後、一家は離散したとの事。
酷すぎる、
薩摩藩の8代藩主重豪(オランダかぶれで散財)→9代家宣(重豪父の
重豪と対立して蟄居)→10代斉興(重豪の作った借金を調所とともに返済)
11代藩主にオランダかぶれの斉彬が藩主になるとまた借金が増えると心配した斉興と調所ができるだけ斉彬へ藩主を譲らなかったのは、当時の薩摩藩においては妥当な判断だと思います。

海外事情や殖産興業は大事だが、藩の財政が破綻しては元も子もない。
俺だってそうするね。

老中阿部は斉彬のもつ海外情報や技術を利用したくて、事件を利用して斉興を隠居させて斉彬に藩主を譲らせた。


調所は老中阿部に密貿易を規定以上に行っている事を詰問されて自殺に追い込まれた。
密貿易の増額なんて歴代藩主の承認のもとでやっていたわけで、幕府も薄々しっていた。藩を守るために自殺したといわれています。
しかも、密貿易の情報を阿部に提供したといわれる黒幕の斉彬は藩主になったあとで密貿易を更にふやしてるんです。

高校の教科書にも調所は天保の改革財政再建の代表例として出てます。

財政再建派の斉興・調所VS開国派の老中阿部・斉彬・一橋派+弟子の西郷、大久保。
という図式の中で、政争に巻き込まれてしまった。

調所家はその後一家離散しています。可哀想過ぎる。
薩摩藩って尊王攘夷派だと思われていますが、斉彬は完全な攘夷なんて無理だとわかっていたし、幕府の老中阿部の支援により藩主になっているんです。

阿部の死後は討幕に傾きますがそれ以前は幕府と協力していたんですね。

斉彬はオランダ語の読み書きができたそうです。
それで海外情報をいち早く入手していたため四賢候、徳川斉昭と書籍の
貸し借りや文通をしていたんですね。
鎖国中の江戸時代に外国語を勉強しようとするその向上心は感心します。
恵まれた現代においても必要とされる英語さえ勉強しない私を含めた
多くの人よりは志が高いと感じます。
また、斉彬は集成館を作ったり、藩政を行ったり、働き者だったそうです。
何人もの部下から一度に報告を聞いて指示を出す様子は頭が2つあるようだ
寺島宗則が後に書いています。
外国語や海外の技術への好奇心、向上心。藩や日本をよくしたいという
志をもち、西郷や大久保を使いこなした器の大きな藩主であるようです。
しかし、それができたのも重豪の教えや、調所の財政再建があってこそ。
そして藩政7年間、享年50歳で病死しています。

小市民の私は幕末の偉人である斉彬より5年も長生きできている事に幸せを感じます。

貴重な残された人生を無駄遣いしないように今後も勉強していきたいと思います。