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教科書には書かれていない江戸時代

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教科書には書かれていない江戸時代

著者が教科書の編者。
教科書では通説として「学会」に認められた説を採用する。
文部科学省と現場の先生からも受け入れられる必要がある。
本書は自由に最先端の知見を盛り込まれている。

興味のあった章2つ程度感想。
最後の将軍として慶喜は有名だが、それと比較して14代家茂は地味な存在だと感じています。
孝明天皇の妹の和宮との結婚。
1863年18歳で上洛する事となる。
交通費や宿泊費3千人の家来の費用を含めて
2千億円がかかったそうです。
大坂で3カ月滞在して朝廷に攘夷を飲まされ帰京。

1865年3度目の上洛。長州征伐が目的。
そのタイミングを狙った4か国艦隊が兵庫に入港し安政の5カ国条約を迫った。
老中が独断で承認したため朝廷が老中を罷免。
朝廷による幕閣人事介入に抗議して家茂は将軍辞職を決意したが慶喜に引き留められた。

1866年頃から体調が悪化、重度の脚気の症状、両足が水膨れて、嘔吐を繰り返した。
最後は国難の中、死んでしまうのが残念だと繰り返していた。
将軍在位8年、20歳の死。

在職中は朝廷から呼びつけられて上洛や出兵を行わされた。
幕府内の意見もまとまらず、自分の意思も反映できない。
自分の思い通りにならずに何度も両目に涙をためていたそうです。
病弱な心身を蝕んで死期を早めたのではないか。
将軍なんて羨ましくないですね。
そんな家茂を補佐した慶喜も将軍職に魅力を感じるわけがありません。

特に慶喜は大奥や幕閣、薩長諸藩から嫌われていた。
一橋家なので自分の軍隊も持っていない。
将軍になったら無理難題を言われる。
東京に地盤がなく、京都は薩摩軍に囲まれており命さえ危うい。
信頼関係のあった孝明天皇も同年天然痘で36歳で死去してしまい、後ろ盾がない状態。
将軍とか天皇といっても20歳とか36歳で死んでしまっては悔いが残ろう。

・諸藩は当初は幕藩体制を維持しつつも藩の意見を政治に  反映させることが目的だった。
・下級武士の暴走で討幕が止まらなくなった。
・諸藩は開国はやむを得ないと思っていた。


大政奉還について。
当時は薩摩が京都で挙兵しようとしていた。
同じく京都で将軍に就任した慶喜にとっては、京都で薩長に攻撃されては身が危うい。
そして大政は朝廷と諸藩が合議で進める。
その中で慶喜参政権を確保しようと考えていた。

江戸時代は儒学者の時代。
これが我々には分かり難い。

江戸時代の僧侶の教養は仏典と儒教儒教を読むために漢文を勉強する。
当時の東アジアの外交文章は全て漢文のため僧侶が登用された。
家康に登用された林羅山も道春という僧侶の資格で登用された。
江戸初期には一部の藩主の教養として使われた。
松平定信によって重用され、一部で幕臣登用試験に使われた。
2回目の試験で当山の金さんの父が合格して出世して行った。
戦国時代が終わり、武士の役割が問われる中で、「民を
慈しまなければならない」という考えを儒学から身に着けた。

選挙で政治家を選ぶ民主主義に育った我々からすれば当たり前の
事だが、世襲で統治者になる大名は教育によって学ばなければ民を慈しむ
といった考えを持てなかったのだろう。
教育や学びは大切だと思う。
大名といえど幕府から睨まれれば転封されるサラリーマン社長に
過ぎないので民意より上意を気にして統治していた。

朱子学は「博学、学問の領域」
陽明学は「朱子学から入って、実額、理論と行動を一致させる」
戦国時代が終わり、軍隊から政治家へ役割が変わる中で武士がどう生きるかに対する
答えを朱子学に求めたため流行した。
学問好きな池田光政に登用された熊沢蕃山。
財政に余裕のない藩にとって金食い虫ですぐに効果の出ない学問は学問好きな藩主の道楽と思われてきた。
先進的な思想を集団で学ぶ事を疑う幕府の意向もあり光政の作った藩校は息子により関谷学校を除き廃止された
蕃山の思想は、人間は平等であり武士は民を愛さねばならない。

武士は民衆を押さえつけ、年貢を搾取して威張る武士が多い時代には画期的な思想。

本居宣長国学において。唐は王朝が頻繁に交代するため国を
信頼しておらず自己中心的であるため道徳を教える必要があった。
古代日本は島国で統一王朝が続いており同一民族であるため
教えなくとも公共を意識した道徳的な生活をしていたと主張。

高校生の頃は理解できなかったが、中国を見ていると今なら理解できる。
中国の儒学科挙により自己栄達を図る手段。
日本の儒学は庶民も寺子屋で読み書き算盤の一つとして儒教を学び、各種学問の基礎となる共通語となっていたこと。
実学でもあったという事。