teinenchallenge’s blog

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四ツ谷内藤新宿

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四ツ谷内藤新宿


・この絵が発表された直後、広重が日本橋の床屋へいったところ、客達が口々に

「今度出た内藤新宿の馬の尻なんざーうめえもんだ。」
と、しきりに誉めていた。
余りの誉めようにすっかり照れた広重は逃げるように出て行ったという。
当時江戸中を沸かした作品である。

・これは四谷4丁目の四谷大木戸跡の歌川広重の絵の看板の説明分です。
画の構図や馬の尻のアップは私の目からも大胆で画期的なものですが、
江戸人の感性でも話題になる画だったようです。

・江戸時代に描かれた馬の尻は、現代ならさしずめ車のマフラーか。
ネットを検索するとバイクを馬に例えて画と同じ構図で
写真を撮っている人がいた。
確かに鉄の馬ならバイクの方がしっくりきます。

・広重の絵の馬糞はデフォルメされて臭いもしません。
現実に馬糞があちこちに転がる路はとても歩けるものではいと思います。
よそ見して生暖かいのを踏んだ日にはとんでもない惨事になります。
注意していても乾燥した細かい破片は踏んでしまいます。
現代でも犬の散歩で糞尿が放置されている路は歩きにくいでしょ?


汚い話はさておき、現在の新宿御苑は当時の信州高遠藩主内藤家の下屋敷でした。
その一部を返上して宿場とした事から内藤新宿と呼ばれ、地名にも残っています。
ふと迷い込んだ新宿2丁目の太宗寺には内藤家の墓がありました。

江戸時代は蕎麦が流行していてその薬味として唐辛子も流行し、内藤新宿辺りでつくられていたそうです。

そんな内藤家ですが学校の教科書には登場せず、全国区の大名ではないようですが、

こと新宿においては 有名人のようです。

 

・新宿2丁目駅近くに天龍寺があります。
入ってみると「天龍寺の時の鐘」があり説明版には
「江戸の外れに存在したため、通常より早く鐘を鳴らし、
内藤新宿で夜通し遊行する人々に「追出しの鐘」と呼ばれたという。
また、江戸城まで距離があるため登城に遅刻しないように30分早く撞いたそうです。

江戸時代も夜通し遊ぶ人がいたんですね。

月に一度の定例登城では多くの大名が一斉に登城するため、桜田門外は凄い混雑となったそうです。
門の目の前にある井伊家さえ2時間かかったそうですから、新宿からだと4時間くらい
かかるかも知れませんね。


さて、四谷大木戸跡に戻ると、近くに玉川上水番所跡の看板があります。
羽村から四谷大木戸までは開渠で、ここからは地下水道管を埋設して四ツ谷を越えたと記載されています。
「塵芥を捨てない、魚を取らない、洗い物をしない、雑草取りをする事。」といった
内容の高札が立っていたそうです。
当時は浄水技術がないため、江戸の飲料水として使われる水質保全は重要でした。
それでも水道が原因で伝染病が何度も流行ったと何かで読んだ気がします。
玉川兄弟が私財を投げ打った話は有名ですね。

大木戸跡近くに2メートルを超える巨大な水道石碑がたっています。
何と篆書は徳川家達
家達は最後の将軍徳川慶喜が隠居した後、田安家から徳川宗家16代当主となった。
慶喜の事を嫌っていながらも、隠居した慶喜の生活費を徳川宗家として負担していた。

慶喜が将軍になるときに家達はまだ4歳、徳川宗家を継いだのは6歳。

廃藩置県で赤坂に移住して篤姫が熱心に教育した。

篤姫慶喜と不仲だったので家達も慶喜を嫌っていたそうです。

慶喜は徳川をつぶした人、私(家達)は建てた人」と言っていたそうです。


・さて、大木戸跡から更に東に進むと「田安通り」の看板。
もしかして御三卿?・・・近くの説明版には御三卿の田安家の
下屋敷があったとの記載があります。
東京は徳川家が発展させた町であることが理解できます。
何もなかった江戸に築城し、全国の大名を住まわせ、漁民や商人
や職人を全国から呼び寄せた。
だから大名屋敷だらけで、商売人は駿河屋とか越後屋という屋号が多く、漁民は淀川区佃村から呼んで地名に残っています。
それから全国の寺を呼び寄せるので香川の金刀比羅さんや京都の伏見稲荷がある。

自然に発生した都市ではなく、人造の都市なんですね。

 

・今度は甲州街道から一歩南に入ると笹寺があります。
慶応大学医学部が実験に使った動物のお墓がります。
更に東に進むと須賀神社があります。
ここには

江戸時代後期に描かれた三六歌仙絵があります。
江戸時代のお寺は宗門人別改帳により出生、妊娠、出産登録など区役所の役割があったので、江戸は人口比例して寺多い印象です。
それぞれの寺院は信仰を集めるために霊験あらたかな有名な仏像や由緒をもつ必要があったのではないかと勝手に想像しています。

現代のお寺にはそのような機能はなく、どうやって寺の収入を維持しているのか知りませんが、どこのお寺の境内にも住職のものとおぼしき高級外車が駐車しているのが不思議です。

私は朝8時台に訪問しているため、他に参拝者もおらず、参拝者の車ではないでしょう。

我が家は父母の代から本籍地を離れているため氏子でもなく葬式の時以外はお寺と接点がありませんが、江戸時代創業のご商売されている店などは先祖のお墓があって、お祭りにも参加するなど生活の中にお寺があるのでしょうか。

 

・次に曙橋方面に向かうと「津の守坂」を通って荒木町に至ります。
荒木町には「むちの池」があり、傍らに津の守弁財天があります。
むちの池は鉄腕ダッシュでかいぼりして有名になりましたね。
昔は大名屋敷の池で今の100倍ほどの広さがあったそうです。
新宿の十二社と同じく過去には滝の名所として栄えたそうですが、そんな過去を知らなければ淀んだ小さな池にしか見えません。
この辺りは地形マニアには有名な窪地の底部に当たります。
名前の由来は美濃国高須藩々主松平摂津の守がこの付近を拝領し上屋敷とした事ので「つのかみ」と呼びます。

この高須藩から出た4兄弟が松平容保を筆頭として幕末に活躍した高須4兄弟。

 

・むちの池周辺は窪地で、坂が多く、日陰でジメジメしていて生活しにくそうです。
戦前は花街だった雰囲気を残して現在も飲食店が並び独特な雰囲気をもつ町です。

昼は陰気でジメジメした窪地に見えますが、夜になればネオンに隠されて雰囲気ある酒場になるのかもしれません。

 

・荒木町からあけぼの橋どおりの谷筋を北上し河田町に入ります。
あけぼの通も谷筋になるため通りは緩い傾斜であり、周囲は念仏坂、安養寺坂など急坂が多い。
通りの終わりは今回の目当ての金弁財天。地図や写真を持参していきましたが細い路地の凹部分にあり、看板もないためわかりにくい。何度も坂を上り下りして見つけた。

小さな祠は暗くて金網で囲われて中をうかがえませんがちょろちょろと水が流れる音だけは聞こえます。

この辺りを水源として支流を集めて真田濠に注いでいたため水源を確認しに来たのですが良くわかりませんでした。


東京女子医大の前を折り返して市ヶ谷柳谷の窪地へ向かう。
この窪地はお寺が多く、ググってみると、松平佐渡守や水野土佐守の屋敷があり大名が参詣する機会がおおいためお寺が多いと書いてありました。
ここも窪地なので坂が多く、狭い路地に小規模住宅が密集している。

 

・最後に富久町西交差点に立つと、そこを頂点に3方向に下り坂になっているのが
良くわかる。

大きな街道や大名屋敷は尾根筋にあり、下屋敷や民家は谷筋にあったのでしょう。

 

・コロナ非常事態宣言で急遽図書館が閉館となってしまったため、GW中の暇潰しに
本を購入した。
今回は歴史ではなく、地形の高低差を楽しむ本にしてみました。
「東京すりばちの達人」カラーと写真が豊富なので1500円とお高め。
しかしコロナで外出できないときに、一人で史跡を歩く事は教養を高め、東京の地理と歴史を理解し、健康に良いので安い投資だと思います。
居酒屋に1回行くより全然有益です。。

・5月2日の天声人語の一部を以下に要約しましたが、同じことを考えている人がいるのではないかと思います。
「吉見俊彦さんの東京裏返し、社会学的街歩きガイドをよむと、その博識に触れながら
街を一緒に歩いている気分になる。
飛鳥山は吉宗が庶民に楽しみを提供するため桜を植えて開発した。
近くに渋沢栄一の製紙会社があったが、経済発展にともない大量の紙幣が必要だと考えたから。
今年の大型連休は遠出を諦めて近所の歴史に触れながら散歩するとか。
今年は小さな発見を求めてのんびり歩くのも悪くない。」

 

・最近の史跡訪問を始めるまでは地形に全く興味がなかったのですが、ブラタモリ

などを見ていると歴史的遺産がそこにあるにはすべて理由があり、その理由の
多くは地形に原因がある事がわかったのです。

江戸は当時世界最大の人口密集都市なのに、の地下水は海水が多く飲み水を確保する必要があった。

また城の防御のため濠が必要であり、神田川などの治水対策が必要だった。

地形による必然が歴史を形成している事が理解できますね。

現代に生きる我々は、海を埋め立て、山を切り開き、地下鉄を縦横に走らせて地形など征服できていると考えていますが、今ある東京は過去の遺物なんですね。