teinenchallenge’s blog

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江戸切絵図散歩

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戸切絵図散歩

永井荷風池波正太郎もバーチャル江戸散歩が好きだったんですね。
切絵図や浮世絵を見ながら散歩する事を楽しいと思う人は世の中に一定数いるのであろう。

江戸散歩のための歴史本や地形のガイドブックは沢山ある。

池波さんは「美しい地図は見飽きる事がない」とコメントしている。
切絵図は実用的な現代の地図にはない美術品の側面をもつのだろう。
今でも手元に置いて日に何度も見ると書いてある。

(池波さんは60歳と比較的お若くして亡くなられています)

景観は変わっても、東京は台地が多いため道筋は当時と変わらない。
そうなんだ、だから地形のガイドブックが多いんだね。
ブラタモリ」で木更津編を放送していた。
木更津は上等な山砂利が取れる。
古代は東京湾が無くて、関東台地から流れた河口が木更津の
辺りに集積していて、砂利も運ばれたためだそうだ。


興味深いのは、「江戸時代」と「令和」の間にある「戦後」の
東京を知ることができる事。
例えば。江戸時代の上野は寛永寺不忍池がある名所であり、
現在は美術館や動物園や繁華街がある名所。
しかし、戦後は浮浪者を収容する小屋が立ち並ぶ不潔な場所だった。

昭和の初め頃までは大川(墨田川)の待乳山あたりから渡し船
で行ったり来たりしていたらしい。
大正までさかのぼれば、大川は清流で雪降る朝は広重の絵のよう
だったと池波さんのお母さんが話していたそうだ。
ノスタルジーにすぎないと言われればそれまでだが、その景色が
残っていれば素晴らしい観光資源になったであろう。

昔は大川の河口に近い三角州、家康の入府にともない大坂から
深川八郎右衛門が入植したため深川の名がある。

深川、木場には江戸で使われる材木が集積しており、昭和初期
までは深川辺りは木屑が濃厚だったそうです。
木材を縦横に走る運河で運搬した。
江戸は火事が多かったため常に大量の木材が流通していた。

明治40年の絵地図を見ると月島や佃島は完全に離陸した島。
陸地とは相生橋のみで繋がっている。
著者は佃島にも思い入れがあるようで、挿絵や写真が多い。
いずれも渡し船を描いたもの。
昔は佃島から銀座に渡し船で出勤する女性がたくさんいたそうです。

当時は高速道路は無く、日本橋や江戸橋の上空を塞ぐものはない。

昔銀座も埋め立てられたので、地下のバーに行くと
満潮時は塩の香りがしたそうです。

著者は至る所で開発を批判しています。
運河を埋め立て、鉄橋を作って渡し船を廃止し、高速道路を
作って歴史と景観の破壊をする企業、官僚、政治家を強烈に批判しています。

地方から東京に出てきた人は江戸の歴史をしらないため貴重な
景観をためらいなく破壊するとの理屈は納得できる。
私も地方から出てきて江戸の歴史をしるまでは、その景観に
まったく感情を動かされませんでしたから。

永井荷風の時代には、まだ江戸の残り香があった。
永井は海外留学の経験があり、欧州の雰囲気で格調高い文章をリズミカルに著述していて、少し文化人として鼻につくが、大正ロマンを感じた。
そのボギャブラリ漢詩のようでありながら瞼の裏に景色を彷彿とさせる美しさがある。

池波さんは大衆小説家なので、庶民的な文章です。
また、自分の幼少期の逸話やご自身の絵についての記載、
あるいは「切絵図」そのものに対する賛美が目的なので、
同じ散歩記とはいっても目的が異なっています。

文庫版なのでせっかくの切絵図の写真も、文字が見えない!

これでは散歩のお供にならない。
私は個人的には永井荷風の日和下駄の方が好きです。