teinenchallenge’s blog

普通のサラリーマンが充実した定年後を目指します

大名の定年後 : 青木 宏一郎

」大名の定年後」という書名だが、「大名」とは「柳沢信鴻」の事であり、本書の内容の8割は「宴遊日記」の紹介である。

信鴻は49歳で隠居し六義園に住んで江戸市中を歩き回った12年間の記録を日記に残した。

49歳から61歳の記録である。

信鴻は植物への造詣が深く、日記では2日に1度は植物の名前が出てくるそうだ。六義園での芝刈りやガーデニング作業などは年間150日程度行っていた。

広大な庭で好きな造園をし、気が向けば江戸の繁華街を訪問し、歌舞伎を見て六義園でも歌舞伎を開催するなど好きな事を自由にできる羨ましい身分であった。

 

私は現在56歳なので、信鴻に置き換えれば隠居生活7年目という事になりますが、残念なことに現在の私は毎日11時間会社でこき使われている。

早く信鴻のように興味の赴くまま、好きな事をして過ごしたいものだ。

定年の60歳を過ぎてから等と言っていると、信鴻が日記を止めて出家した年齢になってしまう。

ましてや65歳まで働くとなると信鴻のように園芸やピクニックをする気力体力は残っていないだろう。

現在こそ、65歳定年とか、70歳定年が叫ばれるが、江戸時代に定年という概念は無い。

武士の役職にしても隠居は簡単に許されず、70歳近くまで登城した役人も多かったという記録を読んだ事がある。

江戸時代は鎖国していて技術革新もなく、前例によって仕事が進められていたため前例を多く知る老人は貴重だった。

日記がかかれた間、天明の大飢饉浅間山大噴火などの天災はあったが戦乱の無い平和な時代と言える。

信鴻は当時江戸の繁華街であった浅草、吉原、上野、湯島、両国、亀戸、飛鳥山護国寺などを散歩していた。

開帳、富くじ、見世物、祭り、相撲、歌舞伎を楽しんだ。

現代に例えれば、池袋、新宿、渋谷、六本木でショッピングや食事をし、ロト6を買い、映画やコンサートを見て過ごすようなイメージだろう。

違うとすれば信鴻は家来を何人も連れており、買い物や着替え、休憩所の座席確保は全て家来任せであった事。

5時間程度で10~20キロを歩くなど体力を使う行動であった事。

 

江戸時代の繫華街の地名を見れば気づくが、多くは有名な寺社がある場所だ。

幕府は仏教的な価値観や序列によって社会を安定化させるために民衆が仏教を信仰することを奨励していた。

自由な移動が禁止されていた民衆は参拝を理由にする事で自由に移動できたわけだ。

寺院としては境内で、相撲、富くじを開催する事で収入を得ていた。

見世物では、腕の無い達磨男、熊女、一寸法師、蛇女などが出ていたそうだ。

現代で言えば「危険な生き物」とか「ミイラ展」みたいなものだろうか。

茶屋では看板娘が給仕していて、有名な看板娘は浮世絵になり、番付されて、それを目当てに来る客も多かった。

今で言えばハウスマヌカンメイドカフェのようなものか。

 

散歩だから目的地だけでなく、途中の寄り道も目的であった。

商業資本主義の東京ではウィンドウショッピングのための街づくりとなっている。

車や電車の発達もあって、危険で汚い幹線道路をわざわざ散歩しつつ商業施設に行く事は気晴らしにならないと感じる。

自宅でTVやビデオを見る事ができ、アマゾンで何でも配達してもらえるコロナ禍の東京ではどうしても自宅にこもりがちだ。

信鴻は浅草では夏菊、アジサイ、蒲の花、藤などあらゆる花卉を毎年購入している。

浅草の縁日に参拝すれば4万日のご利益があると言われ、ほおずき市、節分市、歳の市などが開催された。

庶民が本当にご利益を信じていたかは疑わしいが、単なる散歩では理由が乏しいのでご利益があるという理由付けのために無理やりこじつけたのかもしれない。

著者は縁日には千軒近い店が並んでいたのではないかと想像している。

昭和生まれの私からすれば縁日で賑わう地元の神社で想像できるが、若い人は知らないかもしれない。

現代の東京では縁日というより巨大なフリーマーケットみたいなものだろう。

花卉や髪飾り、匂い袋、楊枝などを買って家来に持たせ、ガマの見世物を見たり、茶屋で休憩したりしながら浅草を歩き回っている。

今で言えば池袋でTシャツや靴を買って映画を見て喫茶店やファミレスで休憩するようなものだろう。

吉原について。当時の吉原は遊郭であると同時に、季節ごとに人工的に桜や紅葉を植えてライトアップしたり、色んな形の灯篭をともしたり、帆掛け船や富士山の模型を置いたり、からくり人形を置いたりしており、テーマパークのようだ。

桶に入った蕎麦など名物の食べ物を出す店も多かった。花魁行列はファッションショーとエレクトリカルパレードを合わせたショーのようなものだったろう。

現代で言えば東京駅のプロジェクトマッピングや目黒川の夜桜見物。

両国、回向院につて。

当時、両国は交通の要所であり、人通りが多かった。回向院の出開帳は年間160回を超えており、ほぼ毎日開帳があったようだ。

平賀源内が企画した放屁男や、牛の背中に南無阿弥陀仏という文字が浮き出たもの、タヌキを千年生きたモグラの王様としたもの、鬼娘など荒唐無稽の見世物が多かったそうだが、インチキを分かったうえで大勢が詰めかけた。

時には神田川を舟で亀戸に行ったりしている。

現代なら神田川クルーズか、それなら現代のサラリーマンでも楽しめる費用だろう。

湯島では料理屋で三味線や酒を楽しみ、金魚やキリギリス、植木を買ったりしている。

飛鳥山では蛍狩りをしたり、敷物を持たせ、近くの茶屋から酒肴、田楽や鴨焼きを運ばせている。

晴天時は遠眼鏡で景色を見たり、瓦投げをしている。

私が子供の頃は鈴虫や金魚を飼っている家庭もあったが、現代の東京でそんなご家庭は聞いたことが無い。

季節に応じた色んな気晴らしが失われ、エアコンの聞いた部屋でスマホやTVモニターという他人が作った情報を見つめるという単調な気晴らしになってしまった。

現代の部屋の気晴らしは視聴覚のみで、触覚、嗅覚はなく、味覚は人口調味料の塊。

大量の情報と刺激を浴び続けて麻痺し、より強い刺激を求めて疲れている。

定年後は50%は郊外に住み、晴耕雨読、家庭菜園を楽しみ、スローライフをする。50%は都会に出て美術館やコンサートに行き、美味しいレストランで食事をし、スポーツ観戦をする。

そして、素人劇団やコーラス部に所属するとか、スポーツサークルに所属するという感じだろうか。